麻生田町大橋遺跡 土偶A 89:鴨n Baby
新城市(しんしろし)八名井(やない)宇利川まで牟呂松原幹線水路脇両岸に沿って設けられた通路は3河川の交差点で終了していました。そこから400m近い空白があるのですが、今度はここまで牟呂松原幹線水路南側の丘陵上を並行して走ってきた県道69号線が牟呂松原幹線水路の右岸(北岸)沿いに延びているので、丘陵上の69号線に上って下流に向かいました。県道69号線は190m以内だが、暗渠になっている牟呂松原幹線水路の上を右岸に渡って牟呂松原幹線水路沿いに下っていました。
暗渠になっている牟呂松原幹線水路の下流側を撮影したのが以下の写真〈上記地図内(1)の場所〉。
ここは八名井豊辺屋敷だが、暗渠の出口にはコンクリートでたたかれた蓋が露出している。
牟呂松原幹線水路の右奥の白いガードレールで挟まれた部分が県道69号線だ。
上記、コンクリートでたたかれた出口を下流側から撮影したのが下記写真〈地図内(2)〉。
驚いたことに牟呂松原幹線水路の分割壁が1本増えて、3本の水路が束ねられている。
一番右側(左岸)に細い水路が増えているが、航空写真でチェックしても、どこから出現した水路なのか確認できない。
暗渠出口の蓋の上から3水路の下流側〈地図内(3)〉を撮影したのが下記写真だ。
この部分で牟呂松原幹線水路の幅はそれぞれ3mほど、細い通路は1mほどで、牟呂松原幹線水路と新水路の間の分割壁だけが高くなっている。
牟呂松原幹線水路の方は水が豊富で、流れも速いが、新水路は水はあるもののほとんど流れは無く、土砂が溜まっているのか、雑草が生えている。
暗渠の下流側の最初の橋(八名井下夕屋敷)までは190mあまりだったが、その橋の上から上流側を撮影したのが下記写真〈地図内(4)〉。
幹線水路の左手(右岸)が県道69号線。
同じ橋上から下流側を撮影したのが下記写真だ〈地図内(5)〉。
橋のすぐ下流には両岸に綱が渡されていて、その綱から紐で引かれた浮子(うき)が牟呂松原幹線水路の両方の水路に浮かんでいる。
幹線水路に架かっているすべての橋に長い竹竿が設置されていた。
水路に落ちた子供を救うための竹竿なのだが、この浮子も救助用ではないだろうか。
水路はさほど深くは無いが流れが速い、浮子の繋がっている紐を掴めば、流されずに助かるだろう。
ただ、竹竿の用途は確認できているが、浮子の用途に関しては小生の推測だ。
この橋のすぐ下流には左岸(丘陵側)から幅2m以上の水路が合流しており、新水路にだけつながっていた〈地図内(6)〉。
その次の橋までは210mあまり。
このあたりはさほど環境に変化が無かったので、さらに90mあまり下流の橋に愛車を駐め、牟呂松原幹線水路の上流側を見下ろしたところ、3羽の鴨が牟呂幹線水路と松原幹線水路の間の分割壁の上を慌てて上流に向かって遠ざかって行く姿が見えた〈地図内(7)〉。
真冬に主に安城市を流れる鹿乗川(かのりがわ)を辿った時には多種多様な多くの鳥に遭遇したのだが、
冬鳥の去ってしまった春はどうなんだろうと、期待はしていたのだが、さすがに、ここまで、まったく鳥の姿を見かけなかったのだが、やっと鴨に遭遇した。
ただ、鴨はどんな季節でも、どこの水路にも姿を見せる鳥だ。
それでいて人の姿を見ると、距離が近くなくても必ず遠ざかっていく。
鴨たちは上流側の橋の近くまで行くと、ようやく水路に降りた〈地図内(8)〉。
そして、さらに遠ざかって行った〈地図内(9)〉。
牟呂幹線水路の旧称が「加茂(かも)用水」だったのは偶然じゃない?
その橋の下流、次の橋までは240m以内。
その橋の上から上流側を撮影したのが下記の写真〈地図内(10)〉だった。
この部分では牟呂幹線水路と松原幹線水路の間の分割壁は水没していたが、流れは穏やかになっていた。
この下流に堰(せき)の存在があるのではないかと予想した。
ここはまだ、八名井反林(やないたんばやし)だった。
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牟呂幹線水路は農業用水路であり、「牟呂(むろ)」とは牟呂幹線水路の最終区間に位置する牟呂地区(豊橋市)の名称です。牟呂幹線水路は明治17年(1884)に八名郡八名井村、金澤、加茂村の3ヶ村の間で牟呂幹線水路の前身である加茂用水が計画されたことによっています。