麻生田町大橋遺跡 土偶A 21:栗の大樹と観世音菩薩
豊川市金沢町の大塚古墳から南西9.8kmあまりに位置する小坂井町(こざかいちょう)の観音山古墳に向かうことにしましたが、途中に気になる神社が3社ありましたので、まず三上町の白山神社に向かうことにしました。白山神社にはイザナミが祀られている可能性が高いからです。大塚古墳からみると三上町 白山神社はほぼ真南に位置しており、3.7km以内です。
情報量の関係で、このページでは、この日の最終目的地となった観音山古墳を先に続けて紹介します。
●三上町 白山神社
大塚古墳から県道69号線を南下して豊川に間川(あいだがわ)が合流するポイントのすぐ東側に立ち上がっている丘陵上に白山神社は祀られていた。
南側の表通りから白山神社に登っていくために時計回りに設けられた、一本道になっている、かなり急な坂道を登っていくと、石垣の設けられた南西向きの社頭にぶつかった。
石垣上に、ただ「白山神社」と刻まれた社号標があり、石段の先10m以内に石造八幡鳥居が見えており、そこに向かってコンクリートでたたかれた表参道が延びていた。
上記写真の右手は山の土手で、左手には三上町の住宅街が眺望できる、見晴らしの良い丘陵だ。
石垣下に愛車を駐めて表参道を進むと、50mあまりで瓦葺切妻造平入の拝殿前に出た。
格子戸も窓も板壁も葡萄茶に染められている。
拝殿前で参拝したが、この神社に関する情報は宝永6年(1709年)11月に創建された神社で菊理媛神(ククリヒメ)が単独で祀られていることくらいしか無かった。
菊理媛神は『日本書紀』にしか登場しない神とされ、イザナギと死者であったイザナミが別れる場面で、この二人の仲を取り持った人物という情報だけがある神で、それ以外の正体は不明の神となっている。
しかし、『ホツマツタヱ』ではキクキリヒメ(菊理媛神)はイサナミ(イザナミ)の夫であるイサナギ(イザナギ)の兄弟とされている。
こうした関係から白山神社の相殿や境内社にはイザナミが祀られる場合があるのだが、ここ白山神社には境内社は祀られておらず、当ては外れた。
拝殿の脇に廻って本殿を観に行くと、拝殿と同じ瓦葺切妻造平入の覆屋が設けられていた。
ただし、壁はトタン板で封じられていた。
社頭に戻って三上町を見下ろすと、すぐ眼下に栗の大樹があって、多数のイガグリを実らせていた。
イガグリ越しに見えるのが三上町で、その向こうに見える山並みの向こう側は新城市に当たる。
上記写真右端のもっとも高い山は本宮山のようだ。
●小坂井町 観音山古墳
地図にあるように、豊川市の古墳の多くが豊川市街を中心として北側の山岳部に扇状に点在している。
しかし、観音山古墳は例外的に山岳部ではなく、三河湾側に位置している。
ただ、観音山古墳の東北東870mあまりの場所には海から近いものの、平井稲荷山貝塚・平井遺跡が存在し、縄文人の人骨が50体以上発見されている。
つまり、縄文人の墓所もこの周辺には存在しているので、縄文人と古墳時代の人間は経験則でこの地域外が安全な場所であることを知っていたものと思われる。
観音山古墳は道路から20m以内の畑地の中にあった。
麓を宅地に削られているが、現在の大塚古墳よりは二回りほど大きな古墳だった。
墳頂は平らなようで、3本の古木が生えている。
ネット上に残されている、かつてここに立てられていた教育委員会の製作した案内板『観音山古墳』には以下のようにある。
この古墳は円墳で、およそ、1500年前のものと推定されるが、誰の古墳かは一切不明である。
現在は、原型の一部をとどめているに過ぎないが、「西国三十三ヶ所巡礼観世音」と彫られている石は、玄室の一番奥の鏡石であったと考えられる。
その前方に土中から少し出ている石は天井石で、相当大きなものである。
なお、鏡石に徳川時代の中期に観世音と彫られたところから観音山とよばれるようになった。
この案内書には肝心の、鏡石になぜ「観世音」と彫られたのかという由来が書かれていない。
推測に過ぎないのだが、観音山古墳の南東100mあまりの場所に大同山 報恩寺という曹洞宗寺院がある。
報恩寺に関して『豊川市』公式ウェブサイトにある紹介文を要約すると、以下のようにある。
807年創建の報恩寺の本尊は地蔵菩薩で、真言宗であったと伝えられている。1556年に改宗され、現在は曹洞宗東漸寺の末寺である。
本堂隣の観音堂内には、秘仏の千手観音菩薩像を始め聖観音菩薩像(しょうかんぜおんぼさつぞう)、馬頭観音菩薩像が祀られている。
また、『東三河を歩こう』(https://www.net-plaza.org/KANKO/index.html)というサイトには10年ほど前ではないかと思われる墳頂の様子に関して以下のように書かれ、当時の写真が紹介されている。
頂上に石碑と祠が建ち、大木が茂っている。
この古墳の石が吉田城の修築に使われ、その残りの一部が中央に建っている石碑と言われている。
紹介されている写真には石碑は見えず、現在残っている古木の間に五輪塔を納めた覆屋が設置されている。
推測にすぎないのだが、五輪塔が祀られていたことからすると、報恩寺が観音山古墳の管理をしていた時代があって石碑が建てられ、五輪塔が奉られたのではないだろうか。
上記写真左端には地輪・水輪・火輪が積んであり、中央に風輪、右側の空輪は転がっている。
おそらく五輪塔であることが理解できていない方が置いてあったまま納められる覆屋を製作して五輪塔を納めたのだろう。
五輪塔とは縄文人の考える五元素「地・水・火・風・空」を五大(五元素)と解釈して、「徳」を意味する「輪」として積んだものだ。
現在は寺院内で見ることの多い供養塔の一つだが、インドから伝わったものではなく、日本列島特有の石塔だ。
現在の観音山古墳墳頂には、下から見た限りでは石碑も覆屋も見えなかった。
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豊川市内の古墳巡りは観音山古墳が最後でしたが、実際に存在した古墳数は小生の巡った古墳の3倍はありそうです。ただ、現在はその多くが失くなってしまっています。
このページで紹介した三上町 白山神社と観音山古墳の間には2社の重要な神社が存在し、そのうちの1社にも古墳が存在していました。
続いて、その2社を紹介していきます。
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