御用地遺跡 土偶 13:帆立貝形古墳?
岡崎市に属する北浦古墳から90mあまり東に位置する荒子古墳に向かいました。
現場に着いてみると、そこには東側のネットワイヤーの垣根の上に「荒子公園」と刻まれたステンレス板の標識が掲示されていた(ヘッダー写真)。
急な傾斜地に設けられた荒子公園全体が周囲にコンクリートの垣根を巡らされていて、最も低い場所でも周囲の住宅街より1〜1.5m以上標高が高くなっていた。
南側の入り口から石段を上がって公園内に入ると、公園内の東側は平地に整備されており、3組ほどの子供づれのママさんたちが子供たちを見守りながら談笑していた。
こっちは黒の革ジャンに黒マスクにサングラスという出で立ちなので、黒いカメラを取り出して、「撮影しに来ただけですよ」とプレゼンテーションしながら、まずは西側にそびえる古墳をワンショット。
公園内の最下段からは、さらに円墳の麓に向かって登っていく石段があり、円墳の麓には柵が巡らされている。
墳上には複数種の樹木が幹を伸ばしているのだが、最も太い樹木は切り株だけになっている。
石段は上がらず、ママさんたちの脇を抜けて、反対側の北東側に向かい、
荒子古墳の全景を撮影した。
三河地方の深堀り情報サイト『みかわこまち』(岡崎市文化財保護審議会委員
山田伸子)によれば
https://mikawa-komachi.jp/history/utouootsuka.html
「宇頭北町の荒子古墳は高さ約3m、南北径約25mの円墳でほぼ原形を保っている。」とある。
これが現場もネットも含めて、荒子古墳に関する情報の全てである。
だがこの古墳、この角度から見ると前方後円墳にも見える。
後円部には高木が4本、前方部には高木が1本伸びている。
ただし、前方部は寸法が短いので、削られてしまっているか、以下の航空写真にあるような、もともと前方部の短い野毛大塚古墳(東京都世田谷区)のような帆立貝形古墳である可能性があるのではと思った。
ただし、「帆立貝形古墳」という呼称は東京都以外の古墳で見たことはなく、前方後円墳で通っている場合が多いのだが。
その帆立貝形古墳らしき丘陵の1段下には周溝の断片らしきラインも残っているのだが、この東側の土手は当時のままなんだろうか。
北側にも墳丘に向かって上がっていく階段があったので、そこから上に向かって上がった。
北西側からみる荒子古墳は確かに円墳にしか見えない。
そして何故か、こちら側の地面の芝は日当たりが少ないかららしく、紅葉しないで緑を保っている。
円墳の周囲を巡る通路が設けてあって、反対側の南側に回り込むと、こちら側の墳丘には樹木の根がかなり張っていた。
この荒子古墳からの眺望で最も開けているのは北東方面だが、それは鹿乗川の流れている方向だ。
この荒子公園の中で最も標高の高い場所は、もちろん荒子古墳の墳頂部だが、登ることはできないので、墳墓の北東の麓から北東方向を眺望したのが以下の写真だ。
この周辺には巡った2基の古墳の他にも複数の古墳が集中しており、その総称を「宇頭(うとう)北部古墳群」と呼んでいる。
「ウトウ」とは地形を示す言葉で、地域によって同意でも「ウト・ウツ・ウド・ウドー」などのバリエーションの言葉がある。
『地名の語源』(角川小事典13 P86)には以下のように、意味のバリエーションと地名のバリエーションが紹介されている。
意味1.低くて小さい谷。袋状の谷。せまい峠道。
有道・有戸・宇登・宇頭・宇堂・宇土・宇戸・宇藤・宇筒舞・宇都・有東木・凹道坂・内扇(うとげ)・内尾(うと)串・鵜頭・鵜峠(うどー)・善知鳥(うとー)・謡(うとー)・唄(うとー)・海渡(うと)・大通越(うとし)・右渡(うど)・打当内・唄(うと)貝・蘭木(うどぎ)
意味2.連邦、鈍頂の山や丘
善知鳥・善知鳥山・鳥兎山・宇藤木・宇度木・有渡 等
意味3.崖
宇土・宇都・宇頭(うとうげ)ノ滝・宇都崎・鵜渡根島・大戸(うと)ノ瀬戸・ウドノセ鼻 等
意味4.洞穴
鵜戸・鵜戸崎
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平地にあった北浦古墳と違い、荒子古墳は傾斜地に存在している珍しい古墳ですが、元からの地形を生かしたものか、荒子公園とするために現在のようになったものなか、よく分かりません。
「荒子」という地名も地形を表した用語で、愛知県内には名古屋市内に1ヶ所の町名、岡崎市内には3ヶ所の字名として存在しています。
名古屋市荒古町の町名由来として、『尾張国地名考』(著者:津田正生/出版: ブックショップマイタウン)には、開拓された地を意味する「新治」(あらたばり)が転訛したものとあります。