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今朝平遺跡 縄文のビーナス 24:谷に祀られたもの

愛知県豊田市若林西町の若林八幡宮の存在する矢作川(やはぎがわ)の西岸から東岸に渡り、豊田市の山岳部に入って、北西12kmあまりに位置する豊田市古瀬間町(こせまちょう)の古瀬間御嶽山(おんたけさん)に向かいました。国道155号線と県道239号線を経由したので、南側から若林八幡宮に接近する形になりました。

豊田市古瀬間町 古瀬間御嶽山
豊田市古瀬間町 古瀬間御嶽山
豊田市古瀬間町 古瀬間御嶽山

古瀬間町は、山の上にあることが体感できる場所だった。
舗装された山道を登っていくと、左手の石鳥居の前を通り過ぎた。
なので、どこかでUターンしようとすると、左手の土手の上が広い駐車場になっていることに気づいたので、そこに入った。
駐車場からは道路に出ることなく、直接鳥居前に降りられる通路があったので、その通路で社頭に降りた。
下記写真の右側に見える白いガードレール部分が駐車場の南端。

豊田市古瀬間町 古瀬間御嶽山 鳥居

鳥居の外側に出ると、鳥居脇の社号標にも石鳥居の社頭額にも「御嶽神社」と刻まれていた。
ただし、地図での表記は「古瀬間御嶽山」となっている。
石鳥居は八幡鳥居で、くぐる部分が2mほどの高さだ。
改めて鳥居をくぐり、アスファルトの舗装路を左手に向かった。
表参道は少し登ると、すぐに急な下り坂になった。
道を少し下ると、右手にV字型に分岐する2本の無舗装の分岐道があるのだが、下って来た舗装路はさらに下に向かっているので降りていくと、右手に民家のような建物があるのだが、向かっている道が私道のように思え、参道の雰囲気が無いので、V字型の分岐点まで戻った。
V字型の分岐道のうち、左手に向かう道は下っているので、右手に向かう平坦な道に向かった。
すぐに、さっき見た民家らしき建物の屋根が左下に見えた。

古瀬間御嶽山 関連の建物

後から考えると、この建物が廃社になった御嶽神社本宮か、古瀬間御嶽山の社務所ではないかと思われた。
上記写真では潅木の中から複数の石碑が頭を出しているのが見て取れる。
山中だが、山の上には電柱が建っており、インフラが整備されている場所であることは判る。

選択した荒れた通路を辿ると、すぐに石造の神明鳥居と朱の鳥居が並んでいる場所に出た。

古瀬間御嶽山 境内社 鳥居

通路は赤土で芝が生えており、鳥居の奥に玉垣が見える。
石鳥居には頭を少し下げないとくぐれない場所に紐(注連縄?)が張ってあった。

鳥居をくぐって奥に向かうと、地面には階段の段鼻にあたる素木がところどころに埋め込まれており、行き止まりには石垣の壇上に玉垣を巡らせた施設があった。

古瀬間御嶽山 境内社

石垣の壇は潅木に包まれている。
気づくと、通路の左右には対になった常夜燈や手水桶も見える。

石垣の壇前に至ると、壇前には左右対になった使いの狐石像が設置されていた。

古瀬間御嶽山 境内社稲荷社

壇の中央には10段の石段が設けられ、石段の上、正面には石祠が祀られていた。
その石祠を覆うようにテントの骨組みが残っている。

石段を登ると、石段から石祠に延びる石畳の参道の先に基壇が設けてあり、その上に祀られた稲荷社は入母屋屋根平入の石祠だった。

古瀬間御嶽山 境内社稲荷社

石祠前に設置された榊立てに生けられた榊は片方はまだ枯れていないので、ここ古瀬間御嶽山は廃社になっているわけではなく、参拝に訪れる信者か信者の家族はまだ存在していることが判る。
石材の樹液の掛かる部分は変色しているものの、玉垣も石祠も石材は比較的新しい。

石祠の左隣には自然石を並べたような中の奥の石に「〓姫稲荷社」と刻まれた石柱が建てられていた。
「〓」の部分は文字ではなく何か記号のように見える。

古瀬間御嶽山 境内社稲荷社内姫稲荷社

皇室以外の江戸時代以前の女性の名前が正史に残ることは無いので、そうした女性を「姫」として弁財天や稲荷社として祀ることがある。
ただ、ここの姫稲荷社に関しては、岐阜県多治見市姫町に豊川稲荷の分霊を祀った姫稲荷が存在するので、その分霊を祀った稲荷社がここに持ち込まれたものだろうか。
並べられた自然石は石垣を組むのに使用されていたものが、崩れたことから土を排除して、塚のようにしたものと思われた。

稲荷社の壇上から西方の山を眺望すると、潅木の間に複数の石碑が見え、下記写真右端には分かりにくいが銅像が見える。 

古瀬間御嶽山 境内

さらに山の尾根の上には社殿の屋根らしきものが見える。
そこまで登ってみようと考えた。

稲荷社を降りて、参道をV字形の分岐点まで戻り、今度は左に下っていく分岐道に入った。
すると、その通路の右手の土手の上の潅木の中に稲荷社参道から見えていた石碑が並んでいた。

古瀬間御嶽山 霊神碑

それは石碑前面に御嶽神社神紋とそれぞれ平面に凹刻された面に亡くなった御嶽山信仰信者の名前が刻まれた霊神碑だった。
霊神碑のフォーマットは決まったものではなく、それぞれの神社や塚によって異なる。
御嶽神社の神紋も、時代や地域によって少しずつ異なるが、ここで使用されているタイプの神紋は珍しいものではないが、ネット上には見当たらなくなっていた。
山岳上で生活するのを基本としていた御嶽山信仰そのものが、受け継がれなくなっているので、ネット上からそうした情報も消えていくのだろう。
霊神碑のメンテナンスを行うために土手に上がるための石段も設けられていた。

稲荷社壇上から撮影した山の上から稲荷社側を撮影したのが下記写真だ。

古瀬間御嶽山境内 境内社稲荷社/霊神碑群

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個人的な感想に過ぎないのですが、寺院に付属した墓地と違い、神道ベースの御嶽山信仰の墓地(?)はカラッとしている感じがします。これは仏教式の葬式と神道式の葬式との違いとも共通している個人的なイメージです。


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