麻生田町大橋遺跡 土偶A 9:弥栄の杜の二宮金次郎
豊川市足山田町(あしやまだちょう)の服織神社(はたおりじんじゃ)から国道21号線を610m近く西に向かうと、右手(北側)に広がる畑地の向こう側に鳥居が見えましたが、その鳥居の背後には美しい森が立ち上がっていました。
畑地の間を北に延びる道路があるので、入っていったものの、直接、鳥居に向かう通路は無く、森の裏面に向かう路地があったので、その路地に入っていくと、小さな社(やしろ)の裏面が見えたので、路地のその社の裏側あたりに愛車を駐め、森の西側の空き地(実はゲートボール場)を通って、鳥居の脇に迂回した。
南南東を向いた石造八幡鳥居のすぐ前には畑が広がっている。
鳥居のまん前が畑になってしまったのは、裏面の道路側に社頭を設けると、北向きの神社になってしまうので、それを避けたのだろう。
遠くから見えた美しい森の正体は檜だった。
鳥居の脇には真新しい「不良土開墾地」と刻まれた記念碑が設けられているが、このあたりの土の特徴である赤土は農耕には向いていないのだろう。
神社とは関係の無い記念碑はあるものの、社号標も社頭学も無く、現場に社名は表示されていない。
地図には「弥栄神社(いやさかじんじゃ)」の表示があった。
ここは大木町だ。
弥栄神社は尾張では遭遇した記憶が無く、ここ三河でも初めて遭遇する神社だが、「いやさか(弥栄)」は「やさか(八坂)」とも通じる祇園信仰の神社の名称であり、祭神はスサノオ(牛頭天王)と推測がつく。
尾張でスサノオ(牛頭天王)と言えば津島神社なので、弥栄神社を見かけないのも道理だ。
鳥居に下げられた真新しい麻の注連縄越しに正面奥を見通すと、20m近く奥の檜の幹の陰に社のシルエットが見えた。
鳥居をくぐって、その社に向かうと、左手の木陰に人影が見えた。
それはコンクリート造の二宮金次郎像だった。
ここの二宮金次郎は小生の友人にそっくりだった。
地元の公立学校から持ち込まれたものと思われる。
『二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか?』(猪瀬直樹 文春文庫)によれば、神戸証券取引所理事長の中村直吉夫人が御大典記念事業として、全国83カ所へ二宮金次郎像を寄付したのが二宮金次郎像普及の始まりで、以後、銅器生産日本一の富山県高岡市の鋳造業者がこれを商機とみて、全国の小学校に二宮金次郎像造立の営業をかけたことで、全国に広まり、特に昭和3・4年から約10年間、全国の小学校で二宮金次郎像を設置することが社会現象になったという。
それも、日本が豊かになり、子供に勤労を強いる風潮が過去のものとなると、日本人の時代感覚とズレが生じ、像撤去の方向に向かったものと思われる。
もっとも、高岡市の鋳造業者が製造したものは金属不足となった戦時中に金属供出とされて、消失してしまったものと思われる。
境内の奥には小さいながらも寺勾配を持たせた石垣の組まれた基壇の上に、銅板葺素木造の社が祀られていた。
社の手前には瑞垣の境界を示す仕切り線が石で引かれていた。
弥栄神社の社名の「弥栄」は「一層、栄える」という意味の一般用語でもある。
社(やしろ)の周辺を見て回ったが、社内に境内社は見当たらなかった。
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弥栄神社の祭神スサノオは水路と関係の深い神であり、江戸では氷川神社(ひかわじんじゃ)に祀られていますが、社名に「川」が含まれているように氷川神社の周辺には必ずと言っていいほど、川が流れています。
この「氷川」は『古事記』にある以下の記述にある「肥の河」に由来しているとされています。
こうして須佐之男命(すさのおのみこと)は高天原を追われて、出雲の国の肥の河(ひのかわ)の上流の、鳥髮という名の地に降った。