麻生田町大橋遺跡 土偶A 159:千万町町の日本武尊
岡崎市千万町町(ぜまんぢょうちょう)宮西を流れる乙川(おとがわ)に架かった千万町橋(ぜまんじょばし)上から下流を眺めると、両岸は60m以内まではコンクリートブロックの急な角度の石垣で護岸されていましたが右岸からは水路が合流しているようで、その先の両岸は角度が緩い雑草の茂った土手になっており、右にカーブしていました。
右岸の行く手には大きな石碑が見えている。
千万町橋まで右岸(北側)に沿っていた農道は県道334号線にぶつかって消滅していたが、逆に334号線から左岸に沿って農道が始まり、下流に向かっていた。
しかし、右岸から乙川に合流している鳥川の様子を見たかったので、334号線を北上して、乙川に並行して西に延びる県道333号線に戻り、西に向かうことにした。
333号線に入り、30mあまり走ると、鳥川に架かっている宮前橋に出た。
宮前橋上から下流を見ると、鳥川の水路には土砂が堆積して埋まっており、葦が繁殖していた。
逆に宮前橋上から上流側を見下ろしたのがヘッダー写真で、上流側には土砂の堆積が見えず、水路を広げた場所があった。
これは乙川からの逆流を溜めるのが目的で設けられているようだ。
この鳥川の左岸に沿った道路を宮前橋から40mほど北上した場所に千万町町 八剱神社の社頭が存在した。
社頭には南々東向きの石造台輪鳥居が設置され、コンクリートでたたかれた表参道が北北西に延び、7段の石段上に錆青磁色(さびせいじいろ)に染められたトタン張り入母屋造の拝殿が立ち上がっていた。
石鳥居の右手には「村社八劔神社」と刻まれた社号標が立てられている。
社頭に愛車を駐めて鳥居をくぐると、石段上の平入の拝殿は正面には4間のトタン張の戸が立てられ、中央の1間には木造の板戸が締め切られている。
石段を上がると、狛犬の首が寸胴で長く、そのために獅子頭を持ったオットセイみたいで、面白いので撮影した。
このタイプの狛犬は時折、遭遇するのだが、前足を掛けているのは米俵なのか太鼓なのか。
変わっているのは前足の肘の後ろにヒレのようなモノが付いていることだ。
拝殿前に上がって参拝したが、祭神は日本武尊と建御名方命(タケミナカタ)となっている。
八剱神社に諏訪神社が合祀された神社なのかもしれない。
拝殿の左手に回ると、拝殿の裏面には渡殿と本殿覆屋が連なっているが、本殿覆屋も、錆青磁色のトタン張入母屋造平入で、正面と側面には縦に広い連子窓(れんじまど)の巡らされた珍しい建物だった。
この社殿は社内に掲示された案内書『千万町神楽』には「文永3年(1266年)に藤原弘真が建てたと伝えられる。」とあるが、藤原弘真に関する情報は見当たらない。
本殿覆屋内には「本殿のほかに6棟の社殿が祀られている。」(Wikipedia)という情報があるのだが、6棟に関する具体的な情報も見当たらない。
本殿覆屋の西側に並んで、切妻造平入2間社で正面に縦格子戸を立てた境内社覆屋が祀られていた。
ただ、この社に関しても情報が無く、屋内には素木造の社が1棟祀られていた。
覆屋左側の壁に頭頂が頭布型のお札が立てかけられており、そこには墨で「猿田彦神社本殿両〓〓〓一字」(〓は読み取れない文字)と書かれているが、この境内社と関係のあるお札なのかは不明。
この境内社の左脇の土手の傾斜地には数個の石で段を組んだ場所があって、石祠が祀られていたが、この石祠は若宮社であることが判っている。
「若宮」とは日本武尊の陣に由来する地名を指す場合があるのだが、ここの若宮の祭神は誰を指すのだろうか。
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千万町町 八剱神社は本社に奉納される神楽が現在も継承されていますが、その内容は日本武尊が東京湾を東に渡る際に弟橘媛(おとたちばなひめ:日本武尊の妃)が波を沈めるために舞い、海に身を投じた故事に由来するものなので、なぜ東京湾の故事が三河に伝わっているのかは不明なのです。
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