御用地遺跡 土偶 16:墳頂の大石
岡崎市に位置する小針古墳(こばりこふん)の真東510m以内に存在する猿投塚古墳(さなげづかこふん)に向かいました。
猿投塚古墳は周囲を住宅に囲まれた中にあった。
墳丘には高木としてはシュロが1本、空に突き出ているものの、他は低木と中木が中心となっている。
墳丘の東側(上記写真手前)の麓にはコンクリートで密封された防火水槽があり、そこに面して教育委員会の製作した案内板が設置されていた。
《岡崎市指定文化財》
史跡 猿投塚古墳 471㎡
標高21mの中位段丘縁に立地する古墳で、墳裾が道路などで削られて墳形が崩れているが、円墳と考えられる。かつてこの辺りに分布していた橋目荒居古墳群の唯一の現存古墳。墳丘の直径は南北で約30m、高さは約4mを測る。
内部構造や出土遺物についての記録は残されておらず、築造年代は不明。
岡崎市の公式ウェブサイトでは、発掘調査はされていないものの、古墳時代中期のものと推定されている。
防火水槽から墳頂に向かう通路らしきものがあり、麓には短い石段が設けられている。
墳丘の周囲を時計の反対周りで回ってみると、北側にはカエデが2本伸びており、墳丘を緋色に染めていた。
墳丘の南西側まで回ると、駐車場になっており、墳丘は中腹で削り取られていた。
東側の防火水槽側に戻り、墳頂へ向かう通路を登ってみることにしたが、通路部分はウトウ(細い谷)となっている。
ウトウの右手の中腹には2片の石がのぞいており、手前のは平らに見える。
下記の猿投塚古墳墳丘測量図を見ると、ウトウは反対側にもできており、人が通路にした部分を雨水も流れ、ウトウとなってしまったものかもしれない。
ちなみにこの猿投塚古墳は宇頭台地(うとうだいち)の縁辺に位置している。
ウトウを辿って墳頂に上がると、一抱え以上もある大石が1コ置かれていた。
石の長辺が東西を向いており、石の南側を見下ろしているポジション。
ここに石室でもあって、それに使用されていた石だろうか。
少し赤っぽい色をしているが、白っぽい部分もあり、焼けてこの色になったものか、石質による色なのか不明。
この石を水平にするためと思われる、突っかいの石がはさんであるが、元々の置き方を再現しようとしたものなのか。
となると、天井石ということになるが、天井石としては小さなものだ。
石を西側から見ると、四角ではなく三角になっており、西に向かって少し尖った石であることが解る。
石の背景の東側の土手の樹木は同じ樹種で、人為的に植えられたように見えるが、古墳の土が流れないようにするために植えられたものかもしれない。
東側は西側のようにコンクリートの垣が設けられていないのだ。
ほぼ四角柱に見えていた石を東北側から見下ろすと加工されていたのは3面だけだったことが判った。
古墳名の「猿投(サナギ)」だが、株式会社葵エンジニアリングの公式ウェブサイトの「地名の由来」に
https://www.aoi-eng.co.jp/river/yahagi/timei/r012010.html
こんなことが書かれていた。
サ・ナゲは狭薙(さ・なぎ)の転にて、大雨のたびに表層が崩れる山を表現した地名と推察される。
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猿投塚古墳と同じく矢作川(やはぎがわ)の右岸に位置する猿投山(さなげやま)には日本武尊(小碓)の双子の兄、大碓(おおうす)の御陵があります。
大碓はマムシに噛まれて死んだという伝承があるのですが、大碓陵を訪ねた時、何と、大碓陵前でマムシと遭遇しました。
マムシは小型の蛇ですが、動きが素早く、頭が良く、人間が何をしようとするのかを見極めることができ、状況を見て向かってきたりすることもあり、怖い思いをさせられることがあります。