麻生田町大橋遺跡 土偶A 68:「速」の一族
津島市に存在する津島神社の総本社は東の大鳥居から境内に入場すると、楼門をくぐって社殿前の広場に出ることになりますが、楼門のすぐ北側には社務所があります。そして、社務所にやって来た人でないと気がつかない、また神社の関係者でないと立ち入れないような雰囲気の、狭い通路が社務所の西側に面しており、その通路を北に入って行くと、本殿の回廊の脇に出るようになっており、そこに複数の摂末社が祀られています。
本殿の回廊の東脇には津島神社本殿のある西に向けて、銅版葺流造朱塗りの末社秋津比咩社(あきつひめのやしろ)が祀られていた。
表札によれば、祭神は速秋津比売命(ハヤアキツヒメ)であり、「水神・穢れを祓う神」と紹介されている。
「速秋津比売命」という神名は『古事記』の表記に準拠したもの。
『古事記』の神産みの段では伊邪那岐命・伊邪那美命二神の間に産まれた男女一対の神(速秋津比古神・速秋津比売神)のうちの女性神とされている。
つまり、津島神社の主祭神である建速須佐之男命と共通する父神(伊邪那岐命)を持っていることから、ここ津島神社に境内社として祀られているのだということが解ります。
建速須佐之男命と速秋津比売命はともに名前に「速(ハヤ)」という美称を持っており、同族あるいは関係者であることが暗示されています。
ほかに「速」の美称を持つ著名な神に邇芸速日命(ニギハヤヒ)などが存在する。
しかし、「速」の意味は三者三様で使用されている。
建速須佐之男命の「建速(タケハヤ)」は諸説存在するが、「猛(タケ)々しく荒々しい」の意味とも取れ、速秋津比売命の「速」は「秋津」、邇芸速日命の「速」は「日」に掛かるものであり、「秋津」は以下のように複数の解釈があり、
・秋津=あきつ=開き門=港
・秋津=あきつ=明津=禊
津島神社末社の速秋津比咩社の場合は「禊」説が採用されており、となると「速秋津」は早い流れの中での禊を意味することになる。
また、邇芸速日命の「速」は太陽の輝きの「盛んな様」を表しているとみられている。
速秋津比売命は中臣祭文(なかとみさいもん)である祝詞の『大祓詞(おおはらえのことば)』では、「速開津比売(ハヤアキツヒメ)」で表記されており、川上にいる瀬織津比売神(セオリツヒメ)によって海に流された罪・穢を呑み込んでしまう役割とされている。
この本殿東のスペースの中心に、やはり津島神社本殿のある西に向かって、銅の瓦葺入母屋造で瑞垣で囲われた摂社荒御魂社(あらみたましゃ)が祀られている。
社の木部と瑞垣は全て朱塗りとなっている。
社前板書によれば永享九年(1437)に造営され、宝暦九年(1759)に建造された社だという。
御祭神は須佐之男命荒御魂となっているが、「由緒」には以下のようにある。
元は蛇毒神社と称し八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の御霊を祀っていたとされる。
つまりスサノオは自らの荒御魂の側面(ヤマタノオロチ)を自ら退治したことになる。
高天原で乱暴狼藉を働いて下界に追放され、クシナダヒメという嫁をもらうことから、自らの「猛々しく荒々しさ」を封印したということだろうか。
ちなみに、このスペースには津島神社本殿の建速須佐之男命に寄り添うように唯一、津島神社本殿と同じ南向きに建造された末社稲田社(いなだのやしろ)に櫛名田比売命(クシナダヒメ)が祀られている。
津島神社本殿の東脇のスペースから楼門前に戻り、楼門の外側に出ると水路が存在するが、その水路に掛かったもう一つの石橋が南側に架かっていて、その脇に銅版葺流造で木部を紅白に染められた末社橋守社(はしもりのやしろ)が祀られている。
宝暦十年(1760)に建造されたものだ。
社前板書には御祭神は猿田彦命とあり、「由緒」には以下のようにある。
昔天王川に架かっていた天王橋の守神として橋の袂に祀られていたとも云われる 。
元は橋姫社と称した。
女神がいつの間にか猿田彦命に変更されている。
そして、同じ石橋の脇には橋守社とセットで、同じ規格の社を持つ愛宕社が並んで祀られているが、御祭神は迦具土神となっている。
一方、南門外側の参道の西側には複数の摂末社が祀られているが、その中で南の大鳥居にもっとも近い場所に玉垣の門のような形で石造伊勢鳥居が設置され、その鳥居の10mあまり奥には社叢の中に拝殿が見えている。
鳥居をくぐると、朱の瓦葺切妻造吹きっぱなしで、白い羽目板部以外の木部が朱に染められた、愛知県ではここ以外では見かけたことの無い、横長の拝殿が20cmほどの高さのコンクリートでたたかれた段上に設置され、その中央の土間の通路の正面奥には社殿がのぞいている。
拝殿内の土間を通り抜けると、正面には1mほどの高さに石垣の組まれた基壇が設けられており、朱で統一された三社が並んでいた。
ここには熱心な参拝者が先に入っていた。
中央の社殿は銅瓦葺流造の摂社居森社(いもりしゃ)で、天正十九年(1591)に豊臣秀吉の母、大政所(おおのまんどころ)の寄進で再建され、さらに宝暦九年(1759)に再建されたものだという。
この社殿前の石段下で参拝したが、拝殿前に社前板書があって、御祭神は須佐之男命幸御魂(さちみたま)となっている。
「由緒」に関しては以下のようにある。
社伝によると、欽明天皇元年(540)に大神がこの地に始めて来臨され、神船を高津の湊の森に寄せて奉ると、蘇民将来(そみんしょうらい)の裔孫と云う老女が、霊鳩の詫によって森の中に居え奉った事により「居森社」と云われる。
居森社の左側には居森社をそのままスケールダウンしたような銅瓦葺流造の末社大日孁社(おおひるめのやしろ)があり、大日孁貴命(オオヒルメ)が祀られている。
表札には「皇室の祖神・日の神」の説明がある。
居森社の右側には居森社と同じ宝暦九年(1759)に建造された大日孁社と同じ規格の末社疹社(はしかのやしろ)が祀られている。
社前板書には以下のようにある。
御祭神 須佐之男命和御魂(にぎみたま)
由緒
古来より、桟俵(さんたわら:米俵の蓋)に一合徳利の酒と赤飯を載せ、赤い御幣を挿して、三本のわら縄で境内の木に吊り下げて、子供の疹や疱瘡の軽症を祈願する信仰が行われていた。
日本で疱瘡(天然痘)が根絶されたのは1955年のことだが、日本の医師が(世界的にも)最初に種痘に成功したのは寛政4年(1792年)のことで、秋月藩(福岡県)の藩医、緒方春朔(しゅんさく)によるものだったが、以来疱瘡の根絶まで、150年以上かかっている。
種痘が定着するまでは、疱瘡は疱瘡神として恐れられたが、疱瘡神は犬や猿、赤色を苦手とするという迷信が広まっていたことから、地域によっては、赤べこやさるぼぼなどの赤いもの、犬の張子、猿の面などもお守りとされてきたという。
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津島神社の神道に関わる部分の紹介は以上ですが、かつての津島神社の神宮寺に当たる部分を次の記事で紹介します。