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今朝平遺跡 縄文のビーナス 49:乳白色の親柱と赤い手摺子

愛知県豊田市桑田和町(くわだわちょう)を流れる足助川(あすけがわ)に架かった千桑橋から県道33号線に戻り、33号線を下ると、990m以内で右手の天伯神社(てんぱくじんじゃ)社頭前に出ました。ここはすでに足助川が流れている最後の町豊田市足助町に入っています。

愛知県豊田市 足助川
足助川 足助町 天伯神社〜真弓橋
足助川 足助町 天伯神社〜真弓橋

足助町 天伯神社は豊田市の今朝平遺跡と刈谷市の本刈谷貝塚を結ぶレイライン上にあるので、すでに以下のレイラインをたどった時に紹介している。

天伯神社の社頭前から33号線を20mあまり下ると、足助川に架かった大正橋の前に出た。
大正橋は大きな橋だったが、歩道が設けられてなく、車の通りも多い橋で、橋上から足助川を撮影することは危険で、できなかった。
やむなく、さらに33号線を下ると、270m以内で33号線は足助川に架かった足助新橋で左岸側に渡り、やはり足助川の左岸に沿った道となった。
33号線が左岸側に移ったのは足助川としては初めてのことだ。
足助新橋の上流川の歩道は巾70cmくらいのところに、白線が引いてあるのみで、スピードを出した車が脇を通り抜けていくので、橋中には出られず、下流川の橋の袂からしか足助川の撮影はできなかった。
上流川の足助川の河床には足助新橋のすぐ上流に巨石が1コ鎮座していたが、ほかはどれも中型の石のみだった。
大正橋部分で川幅は30m以内だが、右岸(下記写真左側)には10m巾ほどの土砂の堆積があり、そこに雑草が生い茂り、竹林も繁殖していた。

豊田市足助町 足助川 足助新橋上流側

両岸ともコンクリートブロックで護岸されているようなのだが、下部は完全に雑草に覆われてしまっている。
左岸側(上記写真右側)の川床にはほとんど土砂の堆積は見えず、堤防の傾斜がなだらかになっている。
竹林は足助川の両岸にまたがって存在している。

足助新橋は下流側にはコンクリートの欄干で仕切られた歩道が設けられていたので、橋上から下流側は撮影することができた。

足助町 足助川 足助新橋下流側

下流側の水路は傾斜が強いようで流れは速く、そのために川床に転がっている石は見当たらない。
上流とは逆に左岸(上記写真左側)に土砂の堆積が多く、右岸には堆積が見られない。
左岸側は河川敷に樹木まで生えている状態だが、右岸側は段々畑が設けられている。
右岸側にも山並みの中腹を通る道が足助川と並行に延びているが、この道がすぐ下流で今朝平遺跡(けさだいらいせき)の前を通っている。
そして、この部分では右岸の山並みは足助川に迫っている。

足助新橋を左岸に渡ると、33号線は初めて平らな道になった。
33号線は、ここまで豊田市川面町で峠を越えるために1ヶ所、短い登りがあったのみで、それ以外は一貫して下ってきた県道だ。

足助新橋から33号線を足助川の下流方向に向かうと、100m以内で足助川に架かった八万橋の前に出た。
愛車を橋の袂に駐めて八万橋上に出ると、右岸の左手に今朝平遺跡の生垣が見えている。

豊田市足助町 足助川 八万橋上流側/今朝平遺跡

この部分で川幅は30m以内で、両岸は6mほどの高さにコンクリートブロックで護岸されている。
今朝平遺跡は約3,500~2,500年前の遺跡だが、3,000年で川床はどれくらい下がったのか気になるが、その間に流れた水量やこの地域の岩質によって大きく異なるのだろう。
現在のこの部分では水の流れは穏やかで、土砂の堆積は多く、川面の幅は8mほどしかない。

八万橋の下流側は川床に中型の河原石が少し見えるように変化している。

足助町 足助川 八万橋下流側

左岸(上記写真向こう岸)に通っている白いガードレールは33号線だ。
下流側も土砂の堆積は多く、中洲ができていた。

八万橋から33号線を足助川の下流に向かって130mあまり走ると今朝平交差点に出るが、その交差点内から表参道を南に登っていくと、今朝平八幡神社があるが、この神社もレイライン上にあるので、以下の記事で紹介している。

今朝平交差点の北側には足助川に架かった今朝平橋が存在し、33号線はこの交差点から今朝平橋を右岸に渡り、北に向かって急坂を登って行く。

今朝平橋の袂に愛車を駐めて、今朝平橋のすぐ下流側に並んで架かっている旧今朝平橋に入った。
旧今朝平橋上から今朝平橋を撮影したのが下記写真だ。

豊田市足助町 足助川 今朝平橋

今朝平橋の側面には唐紅色に染められた橋桁が見えている。
橋上のコンクリートと濃いベージュ色にペイントされた橋桁(ヘッダー写真)のイメージからすると意外な派手さだ。
川幅は50mあまり。
今朝平橋は右岸(上記写真左側)に向かって登りになっているが、橋を渡りきった33号線は、さらに急な上り道となって北に向かっている。
橋下には川床に段差があり、巾20mほどの水流が白い飛沫を上げている。
川床には角の立った中型の石が多く、左岸側(上記写真右側)には石がかなり堆積している。

今朝平橋の方の中央に出て、上流側を見下ろすと、背の高い雑草で覆われた河川敷が広がり、中洲までできていた。

足助町 足助川 今朝平橋上流側

川床には多くの中型の石が転がり、水流は速いようだ。

再び旧今朝平橋に戻り下流側を見下ろすと、川床には巨石が見えるが小型の石は多くなく、水の流れは静かになっている。

足助町 足助川 旧今朝平橋下流側

旧今朝平橋のすぐ下流までは土砂の堆積の幅は広いが、その先は川面が広がっている。
右岸(上記写真右側)からは樹木が川面の中央まで豊かな枝葉を伸ばしていた。

この川床の巨石をUPにして観ると、かなり表面が摩耗しているのだが、周囲に玉石は見えない。

足助町 足助川 旧今朝平橋下流側 巨石群

この巨石群の右岸の岸の崖には石造物群が奉られており、これらもレイライン上に位置することから、すでに以下の記事になっている。

上記の崖に奉られた石造物群は今朝平橋北側の33号線から足助川に沿って下流に延びる中馬街道(ちゅうまかいどう)沿いに位置している。

ここからは33号線を離れ、中馬街道を辿ることで、足助川を辿った。
中馬街道を足助川の下流方向に470mあまり進むと、右手に赤鳥居のある交差点に出たが、赤鳥居とは逆の左手の先に欄干の手摺子(てすりこ:欄干を支える縦桁)が赤い橋が見えるので、その橋に向かった。
橋の袂に愛車を駐めて、漢字の橋名の刻まれた親柱を探すと、それは足助川の左岸側にあり、橋名は「真弓橋」といった。

豊田市足助町 足助川 真弓橋 親柱

親柱と欄干の手摺(てすり)は、あまり見たことのない、同じ乳白色の石材だが、彫られた文字を見ると、硬度の高い石のようだ。
その石を赤くペイントされた金属材で反りのある手摺子で支えている。
こちら側からも赤鳥居は見えているが、明らかに赤い手摺子は赤鳥居を意識したものだろう。
この赤鳥居はお釜稲荷という曰くありげな稲荷社の大鳥居のようだ。

橋長20mあまりの真弓橋上から足助川を見下ろすと、中型の河原石が点在している川床は平らに広がり、この上流までの自然の起伏の多い川床とは明らかに表情が異なっている。

愛知県豊田市足助町 足助川 真弓橋上流側

右岸側沿い(下記写真左側)には道が通されており、コンクリート舗装された河川敷も通され、川縁のそぞろ歩きもできるようになっている。
対岸の左岸には私有地が連なっており、川床には土砂が堆積しているが、雑草は野焼きをしているようで、繁殖はしていない。

下流側の右岸(下記写真右側)を見ると、中馬街道に連なる建造物の裏面が連なっており、下記写真右端の建物などは旧く、足助川を見下ろして風情楽しむための縁側が川面に突き出すように設けられており、足助宿の雰囲気が色濃く残っている。

足助町 足助川 真弓橋下流側

真弓橋の下流160mあまりに橋が架かっている。

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足助川右岸に並行して延びる中馬街道は岡崎方面から信州へ塩を運び、帰途に煙草を名古屋に運んだ街道で、「塩の道」と呼ばれました。「中馬」とは馬を使用して流通を担う、信州の同業組合の名称です。足助宿から信州へ向かう道は険しくなるため、足助宿まで運んできた塩を小分けして、馬の負担を低減する作業をこの宿場町で行なったそうです。

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