麻生田町大橋遺跡 土偶A 20:古墳に残されたもの
豊川市千両町の念仏塚1号墳から東北東2.3kmあまりに位置する花の木古墳群に向かいました。
●花の木古墳群
南側の田園地帯から北上すると、花の木古墳群は丘陵の端にあるようで、急な上り坂を登っていくと、NJT銅管という製造企業の広大な社地内の東南の角周辺に位置しているようで、丘陵上の北側と東側はNJT銅管の敷地に遮られて近づくことはできず、西側は帯川に隔てられ、南側は帯川の支流に遮られていた。
あきらめて、大塚古墳に向かおうとしていると、花の木古墳群の東側に面した空き地(NJT銅管の敷地だと思われる)があり、車が1台駐車していた。
地図上ではその空き地の向こう側に花の木古墳群だと思われる森があるので、その空き地に入った。
空き地の奥は広い溝で、その溝の下には狭い水路が通っており、森に沿って目の高さのワイヤーネット塀が巡らされていた。
森の下は枯れ葉が積もって、雑草は生えていないが、雑木で歩けそうな空間はおろか、森の中を見通すのも無理だった。
空き地から南側の水田地帯を見下ろすと、南側の一宮町の街が眺望できるが、標高差は10mあまりだろうか。
上記写真右手の花の木古墳群の森の端は傾斜地になっており、この部分には高さ3mはありそうな雑草が密集してしていた。
この丘陵の麓には上記写真左右に帯川の支流が流れているので、この丘陵を降って見に行ったところ、清流なようで、教育委員会の製作したホタルに関する立派な案内板が建てられていた。
豊川指定天然記念物
《帯川のホタル》
昭和55年5月28日 指定
大木田面(おおきどおも)を流れる帯川は、ゲンジボタルの生息地として知られていましたが、近年ではその数が減ってきました。
この貴重なホタルの保護のため、平成3年から保存会の活動が始まっています。帯川に注ぐこの水路で、幼虫の餌となるカワニナを繁殖させる努力が効果をあらわし、ホタルの数も増えてきました。
ゲンジボタルが飛び交うのは5月の下旬から梅雨入りのころです。
環境の保護に努め、いつまでもその姿を楽しみたいものです
平成11年12月10日
花の木古墳群を観るのは断念して、この東南東2.7kmあまりに位置する金沢町の大塚古墳に向かうことにした。
●金沢町 大塚古墳
豊川を西岸から東岸に渡るために県道381号線の通っている金沢橋を超えた。
東岸に渡り、右折して東岸の堤防上に出るとすぐ、眼下の水田の中にそれらしい塚が目に飛び込んできた。
堤防上に出たのはそこから直ぐ堤防下に降りる通路があったからだ。
堤防下に降りて、水田の中を一直線に通る農道に入ると、右手に円墳と思われる大塚古墳があった。
円墳上には不明の樹木が立ち上がり、墳丘の上空に覆いかぶさっている。
愛車を農道脇に駐め、広い畦道を30mあまり歩くと、墳高は2mあまりで、墳上の樹木は中央に伸びているわけではなく、北側の畦道から見ると西側(上記写真右手)に寄っており、一方、東側(上記写真左手)の空いている墳上には何か祀られているようだ。
大塚古墳の東側に廻って墳上を見上げると、石祠らしきものと板碑があり、竹で正方形の櫓(やぐら)が組んであり、その櫓に注連縄が張られている。
墳上の樹木は1本の巨木ではなく、細い幹が密集している樹木のようだ。
墳丘は完全に雑草に覆われており、マムシでもいそうな雰囲気だったが、思い切って、石祠の向いている南側から墳丘に上がってみた。
2本セットにした竹が諏訪の御柱のように四方に建てられ、梁に使用されていたと思われる部分の竹棒が脱落している。
竹が2本セットにしてあるのは、一時的なものではなく、常時建てておくためと思われる。
この竹の御柱の奥に石塔(石祠ではなかった)と上部が欠損している板碑と三角形状の石の欠片のようなもの(上記写真右奥の柱の陰になっている)が祀られているのだが、石塔は仏塔、板碑も仏教系のもので、文頭に「卍」が刻まれ、その下の文字は判読できない。
仏塔と注連縄の組み合わせは密教系のものか修験道のものと思われる。
ネット上に残っている古い写真を見ると、三角形状の石は陽根型の道祖神らしきものが乗っていた基壇のようだ。
仏塔の背後(北側)を見渡すと、8月の中旬ということで、稲田が広がり、長い生垣を持つ農家と思われる住宅が数戸、集まっている。
東側方向を眺望すると、水田と住宅は同じだが、遠景に山並が見え、すぐ近くにも丘陵が迫っている。
その丘陵は南に向かって延び、小山になっている。
こちら側は水田ではなく、果樹園や畑地だ。
西側の豊川の堤防は110m先に迫っているが、大塚古墳は洪水被害には会っていないのだろうか。
金沢町 大塚古墳に関しては『遺跡ウォーカー𝜷』(http://www.isekiwalker.com)に情報が紹介されていた。
《所在地》愛知県豊川市金沢町大塚10-1
《遺構概要》
歴博報56、古墳中期〜古墳、墳径30.0〜34.0m・墳高3m。<現況>草生地
《遺物概要》
鏡(銘文なし、遺存度・面径不明、1909年出土、現物なし)、伴出、勾玉+管玉+鉄刀+朱+貝環か。
現在の墳径は12mほどしかないから、墳頂も裾も削り取られているようだ。
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大塚古墳から出土した鏡は失くなっているといいます。約110年前の出土で、明治時代に当たります。大森貝塚を発見したエドワード・シルヴェスタ・モースが来日したのはここで鏡が出土した16年後のことで、まだ、日本人の古代遺物に対する目は開かれていませんでした。鏡には「銘文なし」という情報があるので、専門家が調べたものと思われますが、当時は「古墳時代」という名称も存在しなかったでしょうし、資料として保存されているうちに行方が判らなくなったのでしょうか。
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