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今朝平遺跡 縄文のビーナス 5:山城に登る
豊田市足助町(あすけちょう) 國光稲荷神社(くにみついなりじんじゃ)のすぐ上側には城跡公園足助城の入口があります。ちょうど10年前にも、こちら側(山頂側)にも巨石が存在する可能性があったことから、足助城趾を見学しました。その時の写真を紹介します。
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城跡公園足助城の駐車場の上側にチケット受付があり、そこを抜けると、河原石をコンクリートたたきに埋めた幅の広い通路が足助城城門に続いている。
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門は素木の冠木門(かぶきもん)で、両袖には太い木柵が設けてある。
門の奥は砂利を敷いた道が奥に延びている。
入り口には陶板に焼かれた案内板が設置してあり、こうあった。
真弓山には、南北朝前まで足助地方に勢力を持っていた足助氏の本城があったと伝えられ、山頂の本丸には、「日月(にちげつ)の碑」で知られる真弓山城墟碑や足助重春の歌碑などが建てられていました。
ところが、昭和10年代に研究が進み、 足助氏の本城は、真弓山から西南西の飯盛山(いいもりやま)にあったことがわかりました。
ここにある碑は、今回の足助城の復元にあ たり、本丸から移したものです。
門をくぐって、緩やかな道を登っていくと、曲がり鼻に上記案内板に記述のある日月の碑が設置されていた。
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日月の碑脇を抜けて山の中を5分も歩くと、行く手に門の脇にあったのと同じ木柵を巡らせた丘が見えてきた。
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しかも想像外のスケールだ。
これが、下記絵地図の南物見台のある丘だった。
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南物見台の丘の下を道標に従って左折して進むと、南の丸を抜け、西の丸に向かう通路に入ったが、そこには複数の巨石群のある場所があった。
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ただ、國光稲荷神社の巨石に比肩するような大きなものは無く、祀られているわけでもなかった。
場内で目立った巨石は、ここのみだった。
巨石群脇から西の丸への通路を登って行くとすぐに、左手に石でティアドロップ形に囲われた場所があった。
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これが井戸趾で、案内板にはこうありました。
足助城には、山の斜面からの湧き水を溜めるために作った井戸もありました。深い掘抜き井戸のようにツルベを使うのではなく、大きな柄杓で汲みました。
井戸趾の脇を抜けて西の丸への階段を上がって行くと、開けた場所に出た。
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地面には芝が張られ、それを囲うように木柵が巡らされている。
柵のすぐ正面には盛られたご飯の形をした飯盛山の頂が見えている。
案内板によれば、この飯盛山に本来の足助城は存在していたのだ。
ただ、真弓山に山城が無かったわけではなく、ここから南東900m以内に鶏足城(けっそくじょう)が存在していた。
柵には3列に横木が通してあって、これには理由があった。
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案内板にはこう書かれていた。
柵列
柵は、敵の侵入を防ぐためのものです。2段目の横の木は、鉄砲を撃つとき、鉄砲の台にするように作られています。昔は、柵が藤ツルやワラでしばってあったのでしょう。
西の丸を見下ろすように茅葺入母屋造の立派な西物見台が設けられていた。
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下から登られて2階の物見部分に侵入されないように、1階には登り口が無く、物見窓のある側は2階部分が1階部分から庇のように前にはみ出す、ねずみ返しが設けられている。
2階に登る梯子は取り外せるようになっているのだろう。
案内板には以下のようにあった。
この物見台は、大きな岩盤の上にあります。2.7×5.4mの矢倉は、掘っ建て柱の建物です。2層にしたのは、直近まで他の建物が建てられたためでしょう。
西物見台の内側まで上がって見学し、物見台の脇を下って南物見台に向かうコースをたどり、南物見台下のスペースに出ると、大きな石のベンチが置いてあり、そこには複数の翼を持った楓の種が落ちていた。
脇に楓が幹を伸ばしていたのだ。
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足助城址は、ここを目的に見学にやって来るくらいの価値のある場所でした。ゆったり、自然を楽しみながら登れば、都会の真ん中にある人工的な平城を巡るより楽しめる人は多いと思われます。足助城址には15年ほど前と合わせて2度登っているのですが、ほかの見学者は、この2度を合わせても2名しか出会いませんでした。近くには紅葉の名所の香嵐渓もあり、香嵐渓脇に位置する飯盛山も山登りが楽しめるようになっているので、足助城は3番手の場所になることから、最初に足助にやってきた観光客が足助城まで訪問する可能性は低いと思われます。それだけに足助最大の穴場でもあります。