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今朝平遺跡 縄文のビーナス 42:「どうど」の謎
愛知県道豊田市上八木町に奇岩とセットで奉られた馬頭観音から、さらに県道33号線を下ると、足助川(あすけがわ)の川床には巨石が増え、そのために短い急流のあるポイントが増えてきました。
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足助川と33号線が接近している場所で3ヶ所目の堰が設けられている場所があった。
堰のすぐ上流の河床は堰よりも1m近く高くなっており、その川床は1枚岩のようで、滝に近い形の急流になっていた。
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堰を下流側から見ると、堰の高い部分は4mほどの高さがあり、中央部は3mほどと低くなっており、下部には小さな正方形の排出口が開いているが、水の流れる量はごくわずかで、大半の水は堰の両端から落としているようだ。
堰の表面は陽が当たる時間帯があることから、ほぼ全面が苔に覆われている。
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堰の下流側は水面幅が2mほどと狭まっており、河床や河縁にはやや角ばった石と角の取れた河原石が混在している。
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33号線をさらに下ると、初めての鉄筋造の橋の前に出た。
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橋長を航空写真でチェックすると、25mほどだ。
よく見ると、その橋のすぐ上流側(上記写真手前側)にもコンクリートの欄干柱が並んでいることに気づいた。
上流側の橋の33号線側にはガードレールの車止めが設置してあり、橋の向こう岸は雑草が生い茂って入って行けない状況になっている。
旧橋と新橋のようだ。
旧橋の車止めの前に愛車を駐めて、旧橋上から新橋の架かっている下流側を撮影したのが、下記写真だ。
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新橋の欄干は鉄パイプらしく、水色にペイントされている。
足助川としては初めて川床がコンクリートでたたかれており、橋から川床まで7mくらいありそうだ。
新橋側に移動すると、かなり古い石造の親柱に「百々橋」と刻まれていた。
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だが、よく見ると一度刻まれた名称に変更があったらしく、一旦刻まれた旧名称を削り取りセメントで平らに埋め直した後に橋名を新たに刻み直した痕跡がある。
平らに削り取った中央部分は、削り取る前に角丸の長方形で凹刻されていた枠より縦長になっており、2文字の旧名を現在の3文字に変更したか、あるいは小さな3文字の旧名を現在の大きな3文字名に変更したようなのだ。
《「どうど」とは》
百々橋の別の親柱を見ると、なんと「ももばし」ではなく「どうどはし」と刻まれていた。
そして、こちらの親柱も旧名を削り取ってその部分をセメントで平らに補修した上で、現名称が刻まれていたが、文字面の長さは漢字表記とは違い、変更されていなかった。
珍しい当て字の橋名だが、旧百々橋を渡った対岸(左岸)には「百々」という字名の地が存在することが判った。
地図で見ると10棟の建物しか存在しないごく狭い範囲だ。
そのためとと思われるが、上八木町の「百々」という字名の由来に関する情報は見当たらない。
そこで、著名な「百々」地名の由来を調べてみることにした。
豊田市内で他の「百々」地名を調べてみると、以下の2ヶ所が存在した。
●豊田市百々町(どどちょう:旧平井)
上八木町百々の西北西19.9kmあまりの矢作川右岸
●豊田市伊保町百々ヶ沢(どどがさわ)
上八木町百々の西北西23kmあまりの籠川右岸
上記どちらも、現在は「百々」を「どど」と読むが、豊田市以外の愛知県愛知郡東郷町諸輪百々の場合は「もろわどうどう」と読み、豊田市百々町と東郷町諸輪百々の場合は「どうど」と読むこともあったようだ。
いずれにせよ、「どど」「どうど」「どうどう」は音を立てて流れる水流の音に由来する名称のようで、豊田市の3ヶ所は川沿いの地、東郷町諸輪百々は愛知池の東岸に面しており、愛知池には水が流れ込んでいる川と流れ出している川が複数存在する。
上八木町の百々橋下の川床がコンクリートでたたかれているのは「どうど」という騒音を消すのと、流れをスムースにするのが目的である可能性が高い。
また、上八木町百々の足助川のすぐ下流の対岸(右岸)には「中平」という字名があり、豊田市百々町の旧名が「平井」であることから、土地が「平(たいら)」であることが流れの騒音が響きやすい条件なのかもしれない。
となると、上八木町には「中平」のみで、「上平」「下平」の字名は残っていないようなのだが、現在の上八木町百々の旧字名が「上平(あるいはその一部)」であった可能性も考えられる。
ちなみに中平には縄文遺跡が出土しているという。
そして、足助川を辿る動機になった今朝平遺跡にも「平」が付いている。
「足助川+平」は縄文遺跡の存在する条件になっているようにさえ思える。
百々橋の中央まで出て、上流側を見ると、コンクリートの柱に赤錆の出た鉄棒を通した旧百々橋の欄干が目の前にあった。
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旧百々橋下の河床は百々橋下の河床のようにはコンクリートでたたかれてなく、両岸から八ノ字形に人為的な尖った爪のような堤が上流に向かって突き出している。
こんなものはこれまで見たことのないものだ。
取水のための水路(地図に表記は無い)の堤なのか、あるいは上流から転がってくる石を堰止めるためのものなのか。
実際、旧百々橋の上流側には無数の中型の角の取れた石が溜まっているのだ。
その大きさの石が転がるとしたら、かなりの水量と水流の速さが必要になるはずで、「どうど」と名付けられても不思議な場所ではない。
ただ、上記写真撮影時の百々は静かだった。
まさか、上八木町の「八」はこの八ノ字形の爪に樹木が使用されていたことに由来するのではあるまいな。
「上八木町」の町名の由来を調べてみた。
三河の歴史を発信している葵エンジニアリングの公式サイト「地名の由来」を見ると、菅生川の支流に上八木川が存在するとのことで、上八木川と関連があるようだ。
もしかすると、上八木川にも、この八ノ字形の爪が存在するのだろうか。
一方、百々橋の下流側を見下ろすと、百々橋下のコンクリートでたたかれた川床は百々橋の下流10mあまりで途切れており、途切れた場所にはさっそく中型の自然石が並んでいた。
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川床に水路と直角に並べられた自然石は人為的に並べられたもののようだ。
現場ではまったく気づかなかったが、百々橋の下流20mあまりには左岸から名称不明の川が合流していた。
この川の水源は寧比曾岳(ねびそだけ)の北西斜面から流れ出した二筋の川が上方で合流してから足助川に合流している。
百々橋から、さらに33号線を770mあまり下ると、足助川に架かる2本目の鉄筋橋である日陰橋(ヘッダー写真)の脇に到達した。
日陰橋はオリジナルの鉄製の丸い柱に平らな鉄板を乗せた欄干に既成のガードレールを組み合わせた橋で、全長は26mほどだ。
橋の中央から上流側を見下ろすと雑草で覆われた河川敷が広く、足助川の水路幅は2mあまりしかない。
そして、日陰橋の10mほど上流の先の川床は河原石で埋まっている。
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上記写真左手(右岸)には33号線が見えているが、足助川の向かい側は切り立った崖になっている。
足助川の下流側を見下ろすと、こちら側の水面幅は5mほどに広がっているが、日陰橋から下流10mあたりまでは、やはり川床に石がゴロゴロ転がっている。
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そして、とても足助川の川縁には出られない状況になっている。
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日陰橋の右岸側の字名は「坂」(平の反対語)といい、ここからも縄文遺跡が出土しています。百々橋右岸側の中平、足助川を辿るきっかけとなった今朝平遺跡(けさだいらいせき)も同様、いずれも縄文遺跡が足助川の右岸に位置していますが、左岸からは縄文遺跡は見つかっていません。これは右岸側に33号線を通すための道路が設けられたことと関係があると思われます。道路工事で地面を掘り返したのがきっかけで遺跡が見つかった可能性があるのです。つまり、地面を掘る機会があれば、日本列島の人の居住している多くの場所で縄文遺跡が出土する可能性があるということなのです。縄文中期(紀元前2~3,000年ごろ)の日本列島の人口は25万人あまりと推定されています。竪穴住居に平均4.5人が居住していたと推測されていることからすると、縄文中期には竪穴住居が5万6千軒存在したことになります。1軒の竪穴住居の使用年数が平均5年と考えても、縄文時代は1万6千年以上続いた時代ですので、現代人の想像の及ばない数の住居跡=遺跡があるはずなのです。