今朝平遺跡 縄文のビーナス 26:石山は磐座だった
愛知県豊田市古瀬間町の古瀬間御嶽山(おんたけさん)から北東3.9km以内に位置する豊田市則定町(のりさだちょう)の則定熊野神社に向かいました。県道487号線と県道343号線を経由して、山の中腹に祀られた則定熊野神社の麓の町、則定町に近づくと、以前にもやって来たことのある町であることに気づきました。前にやって来たは則定町の複数の場所が目的でやって来たのですが、今回も目的地の則定熊野神社に登りました。則定熊野神社に登る表参道の舗装路は通常見られないほどの急坂で、前回やって来た時は250ccのモーターサイクルだったので、登り切る自信は無かったものの、エイヤッとなんとか登り切って鳥居前に出られたのですが、今回は手に入れたばかりの150ccの排気量の非力なスクーターだったので、登り切る自信が無く、登り口にある鈴木正三記念館の前に愛車を駐めて、徒歩で150m近い距離の超急坂を途中、何度か休みながら登りました。
急坂を北に向かって登り始め、左手の則定小学校前を通り抜け、校舎の裏山にある運動場の東側を通り抜けると、道は運動場の北側に沿って回り込んでおり、運動場を通り抜けると右手に社号標が建てられていた。社号標のすぐ先の左右には対になった幟立柱が設置されていました。
表参道の幅は幟立柱の先から2mほどに半減し、西に向かって回り込んでいた。
上記写真では木の枝の影になっていて分かりにくいが、社号標に刻まれた文字は「熊野神社」ではなく、「熊埜神社(くまのじんじゃ)」となっている。
「埜」は「野」の旧字体なので、同じく「広く平らな草原」の意味である。
「熊野神社」を使用するようになったのは明治以降のことで、ざっと調べてみたところ、現在でも「熊埜神社」を使用している神社は宮城県に1社、岩手県に2社存在する。
3社とも東北部で明治政府の影響の薄い地域であることと関係がありそうだ。
表参道の超急坂をほぼ登りきった場所から幟立柱を振り返ったのが以下の写真だ。
坂を登り切ると、参道は90度右に折れ、正面に南向きの石造明神鳥居が設置され、北に向かって社殿が並んでいる。
鳥居には立派な注連縄が張られていた。
鳥居の奥には対になった石灯篭が設置され、その奥に瓦葺切妻造棟入で扉を持たない拝殿が直接地面に設けられた基壇上に建てられていた。
壁板にはえんじ色の合板が使用されている。
拝殿の右側に奥に延びる通路があるので、奥に向かうと、2.5mほどの高さに石垣を組んだ壇上に祭文殿が設置されていた。
檜皮葺入母屋造で前面の多くが格子戸と格子窓で覆われた品格のある建物で、拝殿とはイメージが大きく異なる建物だった。
拝殿には無かった鈴が下がっているので、拝殿前に上がって参拝した。
『愛知県神社名鑑』によれば、祭神は「伊邪那岐命 伊邪那美命 須佐之男命始め4神」となっており、御由緒には「社伝に領主鈴木氏は紀州藤代の生まれで、紀州の新宮より寛政の初年(1789)に勧請した。」とある。
愛車を駐めた鈴木正三(しょうさん)記念館の鈴木正三とは則定熊野神社を創建した「鈴木氏」の一族だ。
祭文殿の軒下には素木に黒に凸文字で「熊野神社」と入れた扁額が掛っていた。
祭文殿の裏面に回ると、さらに70cmほどの高さに石垣を組んだ壇が設けられ、その上に銅板葺流造の本殿が設置されていた。
本殿の左右両側には同じ規格の銅板葺流造の小社が祀られていたが、情報が無いので、祭神は不明だ。
本殿の左右両側には同じ規格の銅板葺流造の小社が祀られていたが、情報が無いので、祭神は不明だ。
本殿右側の不明の境内社の並びには幅1m×長さ3mほどの池が設けられていた。
消防車の登れない山の上ということで、消火用水だろうか。
本殿の真裏には石の小山があったが、次の記事を書いている途中で「則定熊野磐座」と呼ばれている磐座であることを知った。
「磐座」とは、その名称からもWikipediaによれば、「古神道における岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもの」と説明されているが、明らかに古神道が成立する以前から存在する自然信仰の一部なのだ。
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石山の前に本殿が祀られていたが、この後、この最奥に奇岩の前に石墓が奉られている場所に遭遇することになりました。前回やって来た時にはその存在に気づかなかった場所でした。