中条遺跡 土偶A 14:保存された縄文海岸
このページでは刈谷市小山町に存在する刈谷市内最古の貝塚である八ッ﨑貝塚を紹介します。
結果的に恩田川をたどる形になったが、天子神社貝塚(あまこじんじゃかいづか)の東北東260m以内に位置する八ッ﨑貝塚に向かった。
八ッ﨑貝塚は下記写真のように、八ッ﨑公園内の一角に丘陵の形で存在していた。
八ッ﨑公園は敷地がほぼ田の字型に4等分され、地面が東急ハンズ渋谷店のようなスキップフロアの形をとっている。
その最も上位にあるのが八ッ﨑貝塚で、しかも八ッ﨑貝塚のフロアだけが飛び抜けて高く、他の3フロアの段差は50cm以内となっている。
上記写真は左の丘が八ッ﨑貝塚で、右手前のフロアが2番目に高いフロアだ。
公園の入口脇に設置された、教育委員会の制作した刈谷市特有の案内書には以下のようにあった。
今からおよそ六千年前に当たる縄文時代早期後半(※約9,500〜7,000年前)の貝塚で、刈谷市内で最も古い貝塚である。標高8mの碧海台地の縁辺部に位置する。同じ台地上に佐太屋敷貝塚をはじめ天子神社貝塚、寺屋敷東貝塚などが恩田川の左岸に並ぶ。
昭和30年・31年・56年に発掘調査が行われ、貝塚条痕土器をはじめ、縄文時代中期から古墳・奈良・平安時代に渡る土器や、石器、骨角器などが出土している。県指定史跡。 平成13年3月
※=山乃辺 注
公園に入ると、左手(八ッ﨑貝塚の東面)に貝塚の丘陵上に上がるための石段が設けられていた。
丘陵の土手は傾斜はあるものの、地表は平らに整地されている。
八ッ﨑貝塚の階段を上がると、芝生の張られた丘陵上の中央に、こちらを向いた八ッ﨑貝塚記念碑が設置されていた。
両脇にはサツキが植えられているのだが、なぜか片側だけ百花繚乱となっている。
そして、記念碑の前には1羽のカラスが芝生上に降りて記念碑と向かい合っていた。
なぜか、3mくらいまで近づいても、逃げようとしない。
日本で最も多いハシブトガラスのようだ。
この八ッ﨑貝塚の丘陵上には高木が多く、ハシブトガラスの好みの環境ではある。
この日は気温が高かったが、貝塚の丘陵上は木陰になっており、
こちらも、芝生に腰を下ろしてしばらく休息を取ることにした。
カラスは片目でしっかりこちらを凝視しており、体勢としては飛び立つ準備はしている。
最後にはこちらも芝生に寝転んで、しばらく、瞑目した。
目を開けると、カラスはまだ同じ場所にいた。
脅かさないように丘陵上の縁に沿って移動し、石碑の裏面を見るために回り込むと、死角に入ったためか、カラスは真上に飛び上がって丘陵上に幹を伸ばしている高木の梢の上に飛び去った。
記念碑の裏面には設置日以外の情報は無かった。
登ってきた階段を降りようとすると、カラスが再びこの丘陵上に舞い降りてきて、丘陵上の反対側に伸びている樹木の根元で何かを探すように歩き回っている。
この丘陵を1羽で縄張りにしているようだ。
階段を降りて反時計回りにフロアを下ると他の3フロアは幼児用遊具の設置されたフロア、ベンチの設置された何も無いフロア、サッカーができるようにネットの張られたフロアなどに区別されているようだった。
最後のフロアは八ッ﨑貝塚の丘陵の北面に面していたが、下記写真の土手は縄文時代の海岸がそのまま残っているものだという。
もちろん、表面は風化しているだろうし、現在は苔が生し、花の終わりかけたユキヤナギの生垣が整備され、土手に伸びている樹木が根を張っている。
こちら側からは緩やかで曲がりくねった石段で八ッ﨑貝塚の丘陵上に上がっていけるようになっている。
こちら側から再び、丘陵上に上がってみると、何と、さっきのカラスが再び記念碑前の同じ場所に戻ってきていた。
八ッ﨑公園は道路を挟んで、恩田川に面しているので、かつての入江(衣浦湾)
の状況を想像するために恩田川を見に行ったのだが、川面がかなり深く、側面から川面は見えず、橋上から見下ろすしかなさそうだった。
八ッ﨑公園の上流50m以内に銭亀橋が架かっていることが判ったので、そこに向かった。
銭亀橋から恩田川の下流方向を眺めると、左手の南岸は川面から8mくらいの高さがあるのだが、右手の北岸は5mくらいしかなかった。
上記写真の左奥のマンションの手前に八ッ﨑公園は位置している。
恩田川の北岸堤防上から北方向を眺望したのが下記の写真だ。
堤防下には水田が広がっている。
左手奥には逢妻川(あいづまがわ)の堤防と、その向こう側の半田市の丘陵が望める。
右手には新幹線の敷設路が奥に向かって延びている。
そして、この水田にはカラスが多かった。
カラスが稲に興味を持つわけはないので、他に何かカラスの気にいる物があるようだ。
縄文海進4mの地図をみてみると、恩田川に沿って出土した天子神社貝塚(あまこじんじゃかいづか)、佐太屋敷貝塚(さたやしきかいづか)、八ツ崎貝塚が見事に海岸線に並んでいることが判る。
八ッ﨑貝塚からも土偶は出土していないが、刈谷市郷土博物館に展示されているものの中に興味を惹く、縄文時代早期(約1万2,000〜7,000年前)の土器があった。
口縁部にのみ縄文時代を象徴するような荒々しい装飾が巡らせてあるのだが、他の部分は繊維でこすった跡はあるものの、無紋といえる、独特の美学を感じさせる土器だった。
そのフォルムが流線型で美しい。
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愛知県南部を巡ってみて、カラスやサギはよく見かけたのだが、考えてみると、縄文時代の出土物で鳥を含め、獣類や魚類のモチーフを造形に使用したものは見た記憶が無い。
縄文人は食用の動物と霊的な動物を別けてみていたのかもしれない。