御用地遺跡 土偶 71:石窓のケツァルコアトル
新城市大宮狐塚 石座神社(いわくらじんじゃ)の拝殿前の広場からコンクリートでたたかれた表参道に戻るとすぐ、左手に真東に向かう脇参道があり、その分岐脇に「須波南宮社(すわなんぐうしゃ)・天王社(てんのうしゃ)参道」と刻まれた社号標が立てられていました。
その杉林の丘の上に向かう脇参道には鼠色の細かな砂利が敷きつめてあり、ところどころ石段を示す丸石が並べられていました。
もちろん、丘の上に向かいました。
参道は杉林の中を真っ直ぐ東に向かっており、奥に丘の上にまで続く石段が立ち上がり、その先は死角になっている。
上記の写真の奥に立ち上がっている石段を登り切ると、広場に出た。
脇参道入口からここまで100mほどだ。
広場の左手には南向きに瓦葺切り妻造平入の覆屋が50cmほどの高さの河原石を積んだ土壇上に設置され、屋内には2基の社がプレーンな石を積んだ基壇上に並んでいる。
その覆屋の前に5つの石が並んでいるのに気づいた。
どうも拝殿の礎石なのではないかと思われる。
5つ目の小さな丸石は前方を示すためのものだろうか。
しかし、4つの礎石と、現在残っている覆屋は真っ直ぐ並んでいない。
真南を向いている覆屋に対して、拝殿はかすかに西に振れ、西側に寄っている。
何れにせよ、拝殿は廃止されたのだろうが、礎石は残せるのであれば、記録になるので、残すのは良い方法だと思う。
覆屋の中には向かって右に摂社須波南宮社、左に末社天王社と素盞鳴命(スサノオ)を合祀した流造の屋根を持つ素木造の社が祀られている。
資料『石座神社の神々たち』によれば、須波南宮社の祭神は諏訪大社の祭神建南方刀美命で、大正5年に大宮厳島神社が須波南宮社に合祀されたという。
この大宮厳島神社は社名からして、石座神社西側に流れている大宮川に由来するものだろう。
大宮厳島神社は表参道東側に祀られていた宝篋印塔(ほうきょういんとう)と同じく、この周辺に存在した真言宗寺院に弁財天として祀られていたものなのかもしれない。
隣に祀られた天王社には同じ存在なので、素盞鳴命が合祀されたのだろうが、隣り合うように祀られたのは大宮厳島神社の祭神イチキシマヒメが素盞鳴命の娘だからなのだろう。
これら4柱の神の祀られた丘を下って脇参道を戻り、表参道を拝殿前に向かうと、ニノ鳥居手前の左手に末社荒波婆岐社(あらはばきしゃ)が祀られている。
『石座神社の神々たち』によれば、祭神は以下となっている。
・豊石窓命(とよいわまどのみこと)
・奇石窓命(くしいしまどのみこと)
個人的な体験(三河本宮山に登った時に紹介します)から、アラハバキ神は翼を持った蛇ケツァルコアトルと同じ神だと考えている。
荒波婆岐社の二柱の神は共通して名前に「石窓」という名称を持っている。
アステカ神話の農耕神ケツァルコアトルは様々な形象で表現されるのだが、その中に上記Wikipediaに紹介されている図版のように、石の建造物に取り付けられた丸窓から頭を出す形で装飾されている例が複数存在している。
『石座神社の神々たち』には、さらに荒波婆岐社に関して以下の記述がある。
荒波婆岐社の門の神(御門神)、アラハバキを祀る神社は東北地方に多く見られるが、関東以南でも見ることができる。ただし主祭神としてではなく、門客人(もんきゃくじん)として祀られているケースが多い。門客人とは、神社の門に置かれた客人神(まろうどかみ)。
客人神と初めて遭遇したのは浜名湖北部に位置する渭伊神社(いいじんじゃ)でのことだった。
ここ石座神社も、少し離れているが、浜名湖北部に位置しており、
渭伊神社は石座神社の南東16.6km以内に存在している。
荒波婆岐社から拝殿前広場の西側に向かった。
最初に石座神社の社殿と境内社を巡った時に、後で観ようと思って見過ごしたものが、そこにあったからだ。
拝殿西側の連棟社の下に注連縄が掛けられた石が置かれていた。
この石に関しては『石座神社の神々たち』にも何も情報が無い。
連棟社前に出るときにチラっと見たときの記憶では、石の左脇の石柱に「恵比寿」と刻まれていたような記憶があったのだが、戻ってきてみると、刻まれている文字は読めそうで読めなかった。
さらに最初に見たときには石造の恵比寿坐像が風化したものかと思ったのだが、よく見ると、人為的に造作されたものではなく、自然石のようだ。
しかし、ここに持ち込まれた理由は石仏や神像に似ていたからだろうと思われる。
しかもこの石の乗った石の正面には魚のシルエットが凹刻されているように見える。
おそらく組み合わさっていた異質な石が外れて、それが偶然魚に似た形だったので、人為的にさらに魚に見えるように、少し手が加えられたものではないかと思われる。
よく見ると、上の石は下の石の上にただ置いたものでは無く、下の石の上面と上の石の底面はぴったり合うように加工されている。
そして、不思議なのは二つの石の設置された基壇だった。
4本の石棒を組み合わせて立方体の基壇にしてあるのだが、平面を平らに加工して合わせたものではなく、石と石の合わせ面を見ると、直線になっていないのに隙間ができないように緻密に組み合わせているのだ。
そして4つの石のうちの右二つの石の合わせ目を見ると、直線ではなく、カーブしているのだ。
何のためにこんな手間のかかる組み合わせ方をしているのか、目的が全く判らない。
謎の石の集合体だ。
この謎の石の脇に表参道の方を向けて神馬舎(しんめしゃ)が設けられていた。
瓦葺切妻造棟入の建造物で軒下には素木の板に「神馬」と墨書されている。
舎内を覗くと、草を咥えた、一部に黒漆の残っている木造の神馬像が1体納められていた。
蹄に藁草履を履かせている神馬像は初めて見た。
神馬舎の表の壁に取り付けてある教育委員会製作の案内書『木造神馬』には以下のようにあった。
木造漆塗の神馬は、体高105cm体長150cmの大きなもので空道和尚の作と伝えられている。
空道和尚は正徳年間(1711年頃)にこの地に生まれ、旗本設楽家に仕えたが、後に仏門に入り、その徳は人々に広く慕われたという。
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少し旧い地図を見ると、現在の石座神社本殿の北80mほどの場所に遺跡の記号と「石座神社跡」という表記が残っているものがあります。
そして、現在の石座神社本殿の北80mの場所は新東名高速道路の南側の土手になっています。
つまり、新東名高速道路を通すために岩座神社は南に移動しているのです。
新東名高速道路の北側には山岳が立ち上がっていますが、その山中には石座神社摂社稚児前社(ちごぜんしゃ)の神体とも言える石座石(神籬)が鎮座しているのです。