御用地遺跡 土偶 70:陽石だよね
新城市の柿下遺跡からレイラインをたどって、直線距離で550mあまりの大宮狐塚に位置する石座神社(いわくらじんじゃ)に向かいました。
大宮狐塚 石座神社は茶臼山の反対側にあるので、一旦県道21号線に降り、21号線で茶臼山を迂回して、新東名高速南脇にある石座神社に到達した。
南東の端に位置している社頭周辺は愛車を置くスペースが無かったので、表道路に通じている脇参道の入り口に駐めた。
脇参道から境内に入ると、表参道の途中に出たので、表参道をたどって、まずは社頭に向かった。
コンクリートでたたかれた表参道がカーブしながら社頭に向かっている。
社地はパイプのような形をしており、社頭は南東の端に位置していた。
一ノ鳥居は15段ほどの石段の上に設置されているのだが、「式内 石座神社」と刻まれた社号標は石段の下にあった。
一ノ鳥居を振り返ると、石造の明神鳥居で、やはり「式内 石座神社」と刻まれた社頭額が掛かっている。
改めて表参道を拝殿に向かった。
表参道の、右手は高さ1.5mほどの土手が壁になっており、左手は下りの土手になっている。
表参道を一ノ鳥居から80m近くたどると、参道の両側に杉の巨木が並んでいる場所に到達し、その先に石造のニノ鳥居が設置され、コンクリートで叩かれた参道はニノ鳥居をくぐり、その鳥居の先で右に折れ、拝殿の石段に向かっている。
拝殿前は砂利の敷き詰められた広場になっている。
2mほどの高さに石垣が巡らされた壇上に、ほぼ真南を向いた銅板葺入母屋造の拝殿が設置され、その正面には向拝屋根が突き出し、屋根の中央には千鳥破風が立ち上がっていた。
その千鳥破風に装飾された拝紋(おがみもん)や破風板の飾り金具に金箔の張られた左二つ巴紋が装飾されている。
左二つ巴紋に限らず、神社で二つ巴紋に遭遇したのは初めてだ。
「巴」には「水の渦」、「トグロを巻いた蛇」を図案化したものとする説があるように、ここでも「水」と「蛇」には関わりがある。
家紋として左二つ巴紋を使用した著名な家系に以下の三家が存在する。
小山家 本姓:藤原北家秀郷流/主な根拠地:下野国都賀郡小山庄
現代の主な苗字:結城・長沼・吉見
酒井家 本姓:清和源氏義重流/主な根拠地:三河国碧海郡酒井郷
現代の主な苗字:酒井
根本家 本姓:藤原北家秀郷流/主な根拠地:常陸国信太郡根本
現代の主な苗字:根本
三家のうち三河国に関係があるのは酒井家だ。
二つ巴紋は大韓民国、モンゴル、チベットの旗にも使用されているが、これらは陰陽魚を意味するもので、日本の二つ巴紋とは意味が異なる。
拝殿前で参拝したが、本殿に祀られている神は以下の二柱となっている。
・天之御中主尊(アメノミナカヌシ)
・天稚彦命(アメノワカヒコ)
ちなみに神名の末尾に着く「尊」と「命」という尊称では「尊」の方が格が高いが、場合により、同じ神に「尊」が使われたり、「命」が使われたりする。
『ホツマツタヱ』史観によれば、北極星の位置に在るアメノミヲヤ(天御祖)のエネルギーの一部から生まれた天之御中主尊は最初の独神(ひとりがみ:夫婦ではなく、単独で成った神)であり、地上に生まれた最初の人間とされている。
そして、アメノミヲヤの左右の眼がアマテル(記紀史観で言うところのニギハヤヒ)とされている。
天稚彦命は天孫族だが、オホナムチ(ソサノヲとイナダ姫の第五子)の娘のタカコと婚姻を結び、出雲に住み着いた人物だが、日本神話ではタカキネ(高木神=7代目高皇産霊尊)の返し矢が命中して亡くなったことで知られる人物。
拝殿の西側に廻ると、拝殿脇の奥には木柵で瑞垣が張られており、そのすぐ奥に2mほどの高さの石垣を巡らせた土壇。
土壇の縁には玉垣、その奥には透かし塀が張られており、これほど奥ゆかしい神社は観光客が殺到する大社以外では遭遇したことのない神社だ。
石垣上の透かし塀の奥に拝殿から続く渡殿と銅板葺流造の風格のある本殿が祀られている。
拝殿の西側には拝殿の方を向いた銅板葺素木造の連棟社が拝殿の方を向けて石垣を組んだ基壇上に祀られていた。
上記写真右から以下4社の末社が祀られている。
・山神社 (祭神:大山祇神)
・保食社 (祭神:倉稲魂命)
・伊雑社 (祭神:伊雑大神=天照坐御神御魂)
・神楽社 (祭神:宇須女命)
※祭神は資料『石座神社の神々たち』による
伊雑社(いざわやしろ)と神楽社は初めて遭遇した社だ。
伊雑社の総本社伊雜宮(いざわのみや)は伊勢神宮・内宮(ないくう)の別宮であり、パワースポット好きな人たちには知られた神社だ。
社名に使用されている「雜」が正式の漢字だが、一般的には常用漢字体の「雑」の文字が使用されている。
明治以降、伊雑大神は天照大神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)とされてきたが、伊雑宮御師である西岡家に伝わる文書には祭神に関して「玉柱屋姫命(たまはしらやひめ)とあり、玉柱屋姫命の説明として以下の二柱の記述があるが、この二柱は同神と記されているという。
・玉柱屋姫神天照大神分身在郷
・瀬織津姫神天照大神分身在河
『ホツマツタヱ』史観では、瀬織津姫神はアマテルの妃となっているから、この記述にある「天照大神」はアマテラス(女神)ではなく、アマテル(ニギハヤヒ)と考えられ、「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」「瀬織津姫神天照大神分身在河」はアマテル&セオリツヒメ夫妻を意味していると考えられる。
一方、中世末以降江戸時代までは伊雑大神は伊雑宮神職の磯部氏の祖先とされる伊佐波登美命(イザワトミ)と玉柱命(タマハシラ=玉柱屋姫命)の2座を祀ると考えられたという。
伊佐波登美命の「トミ」は長髄彦の妹、登美夜毘売(トミヤビメ=三炊屋媛)を介して長髄彦の義弟であるニギハヤヒ(アマテル)とつながっている。
つまり、玉柱屋姫神(=セオリツヒメ)は伊佐波登美命(ニギハヤヒ=アマテル)の妃神ということになり、『ホツマツタヱ』史観と整合する。
拝殿の東側に廻ると、銅板葺素木造の摂社稚児前社(ちごぜんしゃ)が祀られている。
この摂社に関して、資料『石座神社の神々たち』には以下の説明がある。
祭神:石鞍若御子天神(いわくらわかみこてんじん)
日本文徳天皇実録に、仁寿元年(851)冬十月の頃に、石鞍の神が従五位下の神階を与えられたとの記述がある。石座石の神格化。
石座石(いわくらいし)とはここ岩座神社の磐座とされている石のことで、1体はこの摂社稚児前社の後方、岩座神社本殿の裏面に隠されているが、この日にはその存在に気づいていなかった。
拝殿前の東側には表参道に向かって、やはり連棟社が祀られている。
上記写真左から以下4社の末社が祀られている。
・水神社 (祭神:速秋津姫命=水戸神)
・金刀比羅社 (祭神:大物主命)
・白山社 (祭神:白山比咩命)
・祖霊社 (祭神:天児屋根命)
※祭神は資料『石座神社の神々たち』による
水戸神(みなとのかみ)に関して以下の記述があった。
水戸神とは港の神。古代の港は河口に造られるもので、水戸神は河口の神でもある。川に稚れ流す意味から、祓除の神ともされる。
この水神社の南西80m以内に大宮川が流れており、大宮川は直線距離で水神社のほぼ真南2.3km以内で豊川に流れ込んでいる。
大宮川自体は舟運に利用されるような規模の川ではないが、豊川は愛知県内では木曽川、矢作川(やはぎがわ)に次いで舟運に利用された川であることが知られており、その関係で豊川沿いに祀られていた水戸神が式内社である石座神社に合祀された可能性はありえる。
河川についての体系的な研究は関東・東北の諸河川に集中しており、愛知県内では木曽川に限定されている。
それも、織田信長によって全国が統一され、政治圏・経済圏がつながったことにより拡大して以降のことであり、古代の河川の利用状況はほとんど研究されていない。
豊川下流部の新城で通船が始まったのは元和・寛永(1615〜1644年)の頃であり、舟運体系ができあがった要因としては慶長5年(1600)当時の豊川河口に創設された吉田湊(みなと)と豊川河口の西側に創設された御馬湊(おんまみなと)の確立が大きい。
上記連棟社の右側には以下4基の石造物が並べられていた。
この4基の石像物に関しては情報が無く、左端は不明。
中央の二基は石祠。
右端は宝篋印塔(ほうきょういんとう)。
不明の石造物は角が欠けて円くなった厚い石版から、ヘソのようなものが突き出している。
初めて観るものだが、似たものを、通ってきた作手保永(つくてやすなが)の貴舩神社(きふねじんじゃ)で観ている。
陽石型の道祖神ではないかとみた以下の石である。
上記写真ではやや分かりにくいが、やはりヘソのようなものが突き出ている。
このことから石座神社の石造物も陽石型の道祖神ではないかとみるのだが、こんな奇妙なもの、特に石座神社のこの石造物は他では見たことが無い。
宝篋印塔は真言宗寺院で奉られた仏塔であり、周辺に真言宗寺院が存在したものとみられる。
(この項続く)
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日帰りできる場所に限ってですが、施設名と住所以外を前もって調べて出かけることはしません。
前もって調べて出かけると、調べたところだけ観てくることになってしまう傾向が強くなるからです。
1度目の訪問では感覚だけで現場に触れたいと思っています。
その代わり、重要なものを見落として帰ってくることが出てくるので、2度同じ場所に向かうことが多くなります。
石座神社とその関係の場所には都合、5度訪問することになりました。
現場で、案内板や由緒書をじっくり読むことはないので、それらの内容を確認するために、愛知県内なら同じ場所に再度訪れる必要が生じることは多い。