今朝平遺跡 縄文のビーナス 8:八万の陽石
豊田市足助町(あすけちょう)の今朝平八幡神社(けさだいらはちまんじんじゃ)を出て、県道366号線に入り、西に向かい、頂上に磐座(いわくら)のある飯盛山(いいもりやま)に向かうことにしたのですが、途中、足助庚申(あすけこうしん)の前を通るので寄っていくことにしました。「庚申」とは「庚申待(こうしんまち)」という、庚申の日(「かのえさる」という干支の日)に青面金剛(しょうめんこんごう)という仏を祀って徹夜で三尸(さんし)の虫を供養する行事のことです。多種多様な信仰が習合した信仰行事なので、説明するだけで、記事が1本書けてしまいます。詳細はWikipedia「庚申信仰」を参照してください。
●奇妙な石造物を探す
足助庚申を奉った庚申堂は366号線から、縄文のビーナスが展示されている足助資料館に向かう交差点から1軒西隣に位置している。
足助庚申に寄るのは3度目で、前2回は季節が異なり、庭の様子には大きな変化があった。
最初に足助庚申を見つける前に、このあたりの足助川河原周辺に奇妙な石造物(後に陽石であることが解った)が存在するという旧いネット情報があったので、それを探しにきたのだが、足助川に沿って探し回ったものの見つからなかった。
ちょうど、366号線に沿って床屋(通常は情報をたくさん持っている場合が多い)があったので、そこのご主人に聞いてみたのだが、正式名称が不明であり、探している私が、それが何であるのか解っていなかったので、彼にも見当がつかなかった。
私の母方の従兄弟が、ここ足助町の高校に通っていて、床屋のご主人とほぼ同年代だったので、名前を出したところ、知っていた。
我が従兄弟は豊田市の山間部では、喧嘩が強いことで知られていた人間だったので、名前を出してみたのだ。
それでも、その時は奇妙な石造物に関しては不明で、現存していない可能性があると思われた。
しかし、石造物マニアの私には「奇妙な石造物」に関する興味は止みがたく、足助町は母親の実家に行く時の通り道でもあり、次に通りかかった時、時間があったので、再び「奇妙な石造物」を探すことにしたのだ。
その日は足助川沿いの左岸を徒歩で辿ってみようと、愛車を足助川に架かった五助橋(ごすけばし)の右岸(西岸)の袂に駐めて、足助川左岸沿いの道を探そうとしたのだが、足助川の左岸沿いは住宅などで埋まっていて、結局、足助川から40mあまり離れた場所を足助川と並行して走っている366号線に出るしかなかった。
ただ、私道など、地図に表記されていない足助川沿いの道が存在する可能性もあった。
366号線に出て、足助川下流に向かうと、2軒目のブロック塀の上に足助町文化財保護委員会の製作した小さな案内板『十九、庚申堂』が掲示されていて、そこにはこうあった。
何と!
「八万の陽石」が自分の探している「奇妙な石造物」であることはすぐ直感した。
その小さな案内板は以下、庚申堂の写真のブロック塀の上に出ている、焦げ茶色の案内板だった。
門は解放されており、参道の奥、数メートルに位置する瓦葺入母屋造棟入の庚申堂は堂内の天井の高いことが推測できる、珍しい建築物だった。
庚申堂の背後には足助川対岸の山並みが立ち上がっている。
前回ここにやって来た時は夏の終わりで、庚申堂の庭は灌木が生い茂り、庚申堂の戸も開け放たれていたのだが、この日は同じく夏だが、7月の初旬で灌木は整理され、庚申堂のガラス格子戸は閉まっていた。
庚申堂入り口の左の柱には素木の看板に墨書で「庚申堂」、右の柱には同じく「だき地蔵」とある。
抱き上げることで吉凶を測る地蔵菩薩も祀られているのだ。
下記写真は前回ここにやって来た10年前に撮影した堂内だ。
●庚申堂内に見られるもの
天井の左右には「足助庚申」と墨書されたカラフルな装飾のある献灯が並び、中央には同じく「足助庚申」と墨書された赤い丸提灯が1丁下がっている。
他には複数の奉納された赤いお手玉のようなものを数珠つなぎにしたものなどが複数下がっているが、これは地方によって「くくり猿」、「猿ぼぼ」、「身代わり猿」などと、呼び名が異なるものだが、足助町や三河山間部でどう呼ばれているのか、調べたが不明だった。
いずれにせよ、「猿」は庚申の「申(さる)」に由来するもので、猿は庚申信仰で奉る青面金剛の使いとされている。
猿なのになぜ赤くて丸い形をしているのかというと、猿の四肢がくくられているために形状が丸くなり、赤いお尻が露出していることから赤色が主になっているのだが、「猿ぼぼ」の場合の「ぼぼ」は女性性器のことで、やはり四肢をくくると露出する部位だ。
四肢が括られて表現されているのは猿が飛び回ることや性器を「欲望」の暗喩と見立て、それをくくることで「禁欲」の暗喩と見立てているとみられている。
襖の奥の部屋には須弥壇が組んであり、中央の厨子内には青面金剛が祀られているようだ。
一面六臂(ろっぴ:六本の腕)の青面金剛であることはカメラでズーム撮影して確認できた。
青面金剛の持ち物は右腕に鉾、剣、矢。
左腕に弓が確認できたが、左腕に持っていた法輪が見えなくなっているのと、もう1本の左腕がどうなっているのか確認できなかった。
探していた「奇妙な石造物=八万(はちまん)の陽石」は参道の左手にあった。
八万の陽石の「八万」とは足助川の左岸に面した一帯の足助町の字名(あざな)のことで、さっき寄ってきた今朝平八幡神社は足助町八万に存在し、「八万の陽石」は八万の足助川沿いにあったのだろう。
「八万」という字名は今朝平八幡神社の「八幡(はちまん)」に由来しているのだと思われる。
八万の陽石に関して案内板「足助の陽石」が庚申堂の前面のガラス格子窓の前に立て札として掲示され、以下のようにあった。
陽石の隣には陰石が並んでいたが、二つある案内板のどちらにも陰石に関する記述は無い。
しかも最初にここにやって来た15年ほど前には草むらに覆われていたからなのか、存在していなかったのか、その存在に気づかなかった。
陽石は見事に陰茎の形をしており、今回は全体に明るいエメラルドグリーンの地衣類が繁殖していた。
中身は花崗岩だと思われる。
一方、陰石の方は陽石と同じ花崗岩だと思われるが、地衣類はほとんど発生していない。
形は人為的なものなのか、自然の造形なのか微妙なところだ。
陰陽2石のほかに三角形の形をした石版も存在した。
この石に関しては最初に来た時から存在したが、案内情報がなく、何なのか不明だ。
単に形が三角形で面白いから、ここに持ち込まれたものである可能性も考えられる。
これら3石とは参道を挟んで向かい合う形で石造の青面金剛が奉られていた。
基壇が見たことのない形態のもので、蓮華座から上とは明らかに別のものであった感じがする。
ただ、基壇部も後拝を持つ青面金剛も地衣類の繁殖がすごく、表面はほぼ地衣類の明るいエメラルドグリーンに覆われている。
なのになぜか蓮華座だけは、底面以外は地衣類がほとんど見られない。
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足助庚申から西に向かい、飯盛山を目指しました。
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