御用地遺跡 土偶 62:ミクマリ神とクマリ
御用地遺跡の北西側に白山神社が位置しており、イザナミが祀られている可能性があるので、そこに向かいました。
国道1号線から県道76線に入り、北上していると、左手に巨大な石鳥居を包むように、大きな杜が立ち上がっていました。
鳥居の右手に大きな社号標があるなと思ったのだが、その石標には「教化史跡 明治用水」と刻まれていた。
鳥居の根元に板書があるのでチェックすると『社記』であり、神社名として「明治川神社(水神社)」とありました。
社名からも判るように明治13年(1880)に創建された神社でした。
神社としては旧いものではないが、祀られているのは縄文期から祀られていた可能性のある、以下の三神が祀られている。
・大水上祖神(みくまりのおやのかみ)
・水分神(みくまりのかみ)
・高龗神(たかおかのかみ)
いずれも、水に関わる神、それも水源に近い場所に祀られる神だ。
大水上祖神は初めて遭遇した神だが、合祀されている水分神の祖神を示唆する名称で、「河川の神」ということくらいしか情報が無い。
水分神と高龗神は各地で祀られている神だが、明治川神社の水分神と高龗神に関して『神社人』というウェブサイトに、
http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=10207
以下の解説がある。
●水分神
水の分配を司る神、田の神、山の神、水源地や水路の分水点に祀られる、子供守護・子授かり・安産祈願の神
●高龗神
水の神、祈雨/止雨の神、灌漑の神
水分神の名称は分水嶺に祀られた神を示唆しているとも取れるが、『神社人』は天水分神と国水分神2柱の総称とみているようだ。
この二柱はハヤアキツヒコとハヤアキツヒメの御子神とされている。
奈良県吉野郡には天之水分神を祀った吉野水分神社が存在する。
ここの天之水分神(あめのミクマリのかみ)は俗に子守明神とも言われ、吉野水分神社は古くから子守宮と伝へられ、『神名帳』などには「吉野水分神社大月次 新甞祭水神今伝 子守明神」とあり、世人はこの神社を出生育養即ち幼児守護の神として崇拝したとされている。
「みくまり(水分)」は「みこもり(御子守)」が訛ったものとする説があり、以下のように日本語の転嫁によって日本では子守(子供)と水が結びついた。
ミクマリ(水分)←御クマリ←ミコモリ(御子守)
ところで、サンスクリット語の「Kumari(クマリ)」は「処女」の意味で、ネパールでは現在でも、初潮を迎えるまでの少女を現人神(あらひとがみ)として祀る信仰が存在する。
以下のように、日本には仏教伝来に伴って、日本語化したサンスクリット語は多い。
サンスクリット語 語意
旦那=ダーナ 布施
閻魔=ヤマ 冥界の王
三昧=サマーディ 瞑想状態
娑婆=サハー 現世
奈落=ナラカ 地獄
阿吽=ア・フーン 宇宙の始まりと終わり
達磨=ボーディダルマ 菩提達磨
あばた=アルブタ かさぶた
etc.
仏教伝来に関わりのある『元興寺縁起』では仏教伝来は538年とされているが、神仏習合していた吉野水分神社の創建は698年とされており、水分神は地蔵菩薩の垂迹(子守権現)とされていた。地蔵菩薩に子守地蔵や子抱き地蔵が存在するのは水分神と子守権現が習合していた名残と言える。
その根源の部分で(みくまりのかみ)とKumari(クマリ)の間に関係があっても不思議ではないのではないか。
明治川神社は明治用水の西岸に祀られたものだが、当時の明治用水は、現在のこの地域では暗渠となっており、地表は岡崎安城自転車道となっている。
その後、かつての明治用水の西側に沿って県道76号線が通され、社地の北側に東西に延びる旧東海道に面した場所に設けられていた社頭とは別に、新たに76号線に面した社頭が設けられたようだ。
ここまで紹介したのは新しい社頭の方だが、社号標は旧東海道側にのみ存在する。
愛車は新しい社頭前の空き地に駐め、大鳥居をくぐると、森の中に入った。
右手に向かって15mほど歩くと、90度左に折れた方向に二ノ鳥居があり、その奥に銅板葺の建物が見えている。
その建物と鳥居の間には石橋が設けられている。
二ノ鳥居をくぐって石橋の前に出ると、石橋は玉垣に囲われた楕円形の神池に架けられたものであることが判った。
池の中を見下ろすと、水は干上がっており、橋の両側に対になったプレーンで面白い石造のオブジェが設置されていた。
石橋の麓にある案内書板碑『明治川神社神池』によれば、「簑笠(みのがさ)を着けて田植えをしている姿」をイメージしたモニュメントだという。
池を迂回して奥に進むと、初めて石畳の表参道が現れた。
参道の先には銅板葺の神門が設けられていたが屋根には陰数の鰹木と平削ぎの千木が乗っており、祭神の大水上祖神を女神と見ているようだ。
神門の扉も塀も格子で統一され、両翼に延びる回廊の窓は連子窓になっている。
神門前で参拝したが、明治川神社には記事の初めに紹介した3柱の祭神の他に江戸時代末期以降の人物4柱が祀られている。
筆頭に挙げられた都築弥厚命は1808年頃(江戸時代末期)、この地碧海台地の開発を計画した人物であり、他の3柱も明治用水の敷設に功労のあった人物たちである。
神門の格子越しに奥を見ると10mほどの渡り廊下が設けられており、正面奥に本殿らしき社が設けられていた。
しかし航空写真でこの杜を見ると、本殿はもっと奥に祀られており、神門越しに見えたのは拝殿か幣殿のようだ。
神門から本殿まで全ての社殿に陰数の鰹木と平削ぎの千木が乗っており、本殿は神明造のようだ。
明治川神社本社の左側に並んで、もう1社、神門を持ち、玉垣で囲われた末社伊左雄社が祀られていた。
『社記』によれば、この社も11柱の明治用水ほか北野用水、鹿野川開削に関わる功労者を祀った社だというが、この11柱はいずれも存命中に神として奉祀された生祀だったという。
存命中に神として祀られたのでは夫婦喧嘩もできなかったのではないか😊
地元に奉仕する人生がどんなものだったのか、興味が惹かれる。
クマリやダライ・ラマや天皇のような現人神の人生の庶民版といったところだろうか。
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明治川神社と遭遇するきっかけとなった白山神社にも参拝しましたが、そこにはイザナミは祀られていませんでした。
この後は、2カ所の縄文遺跡に連なるレイラインに引っかかった神社などを紹介していきます。