今朝平遺跡 縄文のビーナス 63:霊場の水神
『宇宙天気ニュース』(http://swnews.jp)2024/ 1/ 1 12:16に地震トリガー説のある大規模太陽フレアが発生しましたとニュースが出ていましたが、本日2日16時頃も注意が必要なようです。余震に注意しましょう。
それはともかく、明けましておめでとうございます。豊田市前林町の弘法庵前から、蛇行しながら西に登って行く、かつての表参道(現在は脇参道)を水神社に向かって登っていくと、その道は南から登ってくる現在の表参道に合流していました。
旧・新二つの表参道は合流すると、10mも進まないうちに、森の中に明るく開けた場所に向かっていることが判った。
開けた場所には社殿らしき建物が見えていた。
開けた場所に抜けると、20m以内に草原が広がっていて、正面には1.5mほどの高さの石垣の壁が立ち上がっており、その手前には石垣上に上がる7段の石段、幟柱立て、手水桶、焚火所が設けられていた。
石垣上の奥にあるのはこの神社唯一の社殿だった。
その社殿を包むように社叢が取り囲んでいる。
石段の前に立つと、石段も石垣もプリミティブな造作に仕上がっていた。
7段の石段を上がって奥に進むと10m以内に仕切りがあり、そこに今度は3段のプレーンな石段が設置されていた。
2つ目の石段の奥にも、石垣こそ組まれていないが、1mほど土壇が上げられており、その上に社殿が設置されていた。
社殿まで、土壇が3段構えになっていることになる。
最後の土壇の麓に至ると、そこには石段に代わって、方形の石が横一列に並んで地面に埋め込まれていた。
石は本来4基あったようだが左端が1コ失われており、3コが並んでいる。
その奥に土を削って階段が設けられているのだが、これも左半分以上が崩れて消失していた。
その階段の上に瓦葺入母屋造棟入の社殿が設置され、突っかい棒で補強されている。
もしかすると横並びに残っている手前の3つの石はかつて存在していた拝殿の礎石ではないかと推測された。
拝殿が無くなったことから、跡地の土を削った階段が設けられていた可能性がある。
拝殿があったとすると、今残っている社殿は本殿の覆屋だったことになる。
社殿前で参拝したが、この水神社に関する情報も見当たらず、具体的な神名は不明だ。
同じ尾根下に真言宗(弘法庵)の霊場が設けられていることからすると、弁財天が祀られていた可能性があると思われる。
白壁の社殿内には奥に棚が設けられており、桧皮葺神明造の社が祀られていた。
この高い場所に水神社が祀られていることから、やって来る前には、湧き水があるのではないかと推測していたのだが、そうした痕跡は残っていないし、池も存在していない。
戦後、植樹が盛んになってから70年が過ぎている。
そのことから、全国的に社叢は豊かになったが景観は失われている。
かつてはこの境内から郡界川が見下ろせたのではないかと考えた。
境内からの下山は弘法庵の方ではなく、新たに設けられた表参道(上記地図黄色い通路)を降った。
途中、ここでも巨石が見られる場所があった(ヘッダー写真)。
これも『豊田地域の地質』(令和3年 地質調査総合センター)によれば武節花崗岩のようだ。
新たな表参道は山道かの途中から石段に変わって急な土手を下る形になった。
石段の途中、樹木の隙間越しに郡界川水面が見えていた。
郡界川沿の県道341号線に降り、341号線を辿って弘法庵前に向かった。
ちょうど、水神社社殿から見て90度左方向に当たる341号線上から郡界川の視界が開け、弘法庵前に設けられた堰を見下ろすことができた。
石を組んだ上をコンクリートで覆った堰だった。
右岸側(上記写真手前)半分から水が落ちていたが、なぜか水は不透明で濁っている。
かつて、郡界川には愛知県〜新潟県以西に分布する日本産の淡水ハゼ類、ドンコが存在したという。
全長25cmに達するというドンコは水の汚染や堰、消波ブロックなどの設置にもある程度の耐性があるというのだが、餌となる小動物の方が水の汚染に弱いため、間接的にドンコの生存には打撃になるという。
近年の調査ではドンコが見られなくなっているというが、この水質では無理だろう。
調べてみると、すぐ上流に工業所が存在しているように、水質には不利な環境があるのだろう。
貪欲な肉食魚で自分と同じ大きさの動物にも襲いかかるというが、人間にとっては食用になり、美味だという。
ただし、内部寄生虫を保持している可能性があるという。
加茂川橋上から堰によってできたプールを見下ろしたのが下記の写真だ。
上記写真右手尾根下に水神社は存在する。
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豊田市内の地図から拾い出した水神社は2社でした。
本年もよろしくお願いいたします。今年も諸問題は発生するでしょうが、乗り超えて行きましょう。
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