麻生田町大橋遺跡 土偶A 91:他で観たことのないもの
豊川市金沢町で牟呂松原幹線水路(むろまつばらかんせんすいろ)の西側に沿って延びる農道を南下していると、西側の畑地の広がる中に大きな森があることに気づきました。その南側には幟柱らしきものが3本建てられていました。地図で調べると、参拝する予定だった神明社でした。
神明社の杜全体を撮影するために、1本南側の農道で、南側に迂回して、その森に接近した。
南側に回ると、舗装された農道の突き当たりに鳥居も見えた。
3本の幟柱の右手に見える大きな建物は歌舞伎小屋だ。
豊田市の岩倉神社には現役の歌舞伎小屋が残っているが、愛知県内に他にも歌舞伎小屋が残っているのは知らなかった。
ここの小屋では戸時代末期から明治時代まで祭礼で歌舞伎が演じられてきたという。
神明社の社頭に向かうと、社頭は南々西向きで、農道に続く表参道は無舗装で奥に延びている。
「村社 神明社」の社号標が表参道脇に建てられ、入り口の左右には1対の石灯籠。
石鳥居は三河では珍しい伊勢鳥居だったが、ここは神明社なので、本来の鳥居だ。
社頭脇に愛車を駐めて、表参道に入った。
鳥居をくぐると、200m以上奥の正面に拝殿らしき建物が見えている。
150mあまり表参道を進むと、広場に抜けた。
70mほど先にあるのはやはり拝殿だった。
シンプルだが堂々とした銅板葺神明造の建物だが、屋根と50cmほどの高さに石を組んだ基壇は新しく、拝殿躯体の木部はかなり焼けている。
本棟上に並んだ鰹木は、伊勢神宮内宮と同じ10本。
千木は内削ぎで、いずれも天照大御神を示している。
拝所に上がって参拝した。
天照大御神以外の祭神が祀られていないか、記事を書くために調べてみたところ、なんとここの主祭神は天照大御神ではなく、外宮の祭神豊受姫命(トヨウケビメ)であることが判かった。
豊受姫命は記紀に登場する天照大御神と違って、『古事記』にしか登場しない神だ。
和久産巣日神(ワクムスビ)の子供でイザナミの孫に当たる。
名前に含まれる「ウケ」(「食物」の古語)から食物・穀物を司る女神とされているが、ここに祀られたのは稲の栽培に関係してのことだろう。
拝殿の裏面に回ってみると、やはり銅板葺神明造の屋根を持つ神門と神門から両袖に延びる回廊が土壇上に設置されていた。
神門の鰹木は6本になっている。
この建造物も屋根は新しいが木部は焼けているというよりは防腐剤で黒鳶に染められているようだ。
神門前のスペースには玉垣が巡らされ、立ち入りできないようになっている。
神門の奥、本殿の祀られた土壇は2mほどの高さがあり、瑞垣が巡らされた中に、中央に本殿、両脇に異なった規格の社が祀られていた。
●謎の若宮様
本殿に向かって左側の社には「稲荷様」。
右側の社には「若宮様」の表札が出ていた。
稲荷様とはウカノミタマのことで、ここの祭神豊受姫命と同神とも解釈できる。
豊受姫命は「姫」から、女神であることは確実なのだが、伊勢神宮外宮では豊受姫命ではなく「豊受大御神」として祀られ、建造物なども男神の扱いとされている。
その理由は政治的なものだろうか。
菅前総理は鎌倉時代になってからの記録しかないアイヌを1昨年に日本の先住民族として国際的に認めてしまったが、縄文遺跡より旧いアイヌの古代遺跡があるなら、教えてもらいたいもんだ。
「若宮」とは高貴な家の子供のことで、本殿の隣に祀られた「若宮様」は本殿の祭神豊受姫命の御子神ということになるが、『古事記』を含め、豊受姫命の御子神に関する情報は見当たらない。
それではこの若宮様とは誰なのか。
『ホツマツタヱ』ではトヨウケをイサコ(イサナミ)の父としている。
『古事記』ではトヨウケビメをイザナミの孫としているのにだ。
いずれにせよ、トヨウケの子供に関する情報のあるのは『ホツマツタヱ』のみなので、若宮様をイザナミと解釈するか、トヨウケの別の3人の子供、ヤソキネ、カンサヒ、ツハモノヌシのいずれかと解釈するかなのだが、この3者に関しては直系の子孫でなければ、祀ることは考えられない存在なのだ。
別の可能性としては現在、祭神はトヨウケビメとされているが、ここにやって来た時に資料無しでアマテラスが祀られているのだと受け取っていたように、祭神が天照大御神から、何らかの理由でトヨウケビメにすり替えられていたとするなら、ここが豊川と牟呂松原幹線水路の間に存在することから、アマテラスの御子神にして水路や溜池に多く祀られる神、イチキシマヒメ(市寸島比売命)の可能性も出てくる。
ところで、本殿を間近で観てみると、この社殿も木部は新しく、近年に丸ごと新築された神明造の社であることが分かった。
本殿左側の稲荷様も右側の若宮様も流れ造の社殿だ。
神明社本殿の裏面を回って東側に出ようとすると。
本殿の北西部に縁石で長方形に囲い、中に砂利を敷き詰め、そのプールの奥に大小のプレーンなコンクリートブロックを並べて瓦に焼いた祠が祀られていた。
2つのコンクリートブロックは手前が拝石で、大きな石は基壇の役割だった。
●祭神不明の瓦祠
祠は3つの小さな丸穴の空いた正立方体に宝形造の屋根を乗せた形になっている。
瓦製の祠は三河では珍しいものではない。
その基壇の上面には6コの2種類の大きさの突起物が埋められている。
まだ新しい注連縄の輪っかが置いてある場所には突起物ではなく、河原石が置かれていた。
注連縄はその河原石に引っ掛けてあるだけだ。
別の河原石が祠の右側にも置かれている。
拝石の上には縄文土器風のジョッキが置いてあるが、中は空だ。
水鉢の役割なのだろう。
祠の両側奥には素焼きの皿が置かれているが左側は空、右側にはコンクリートで造った饅頭のようなものが乗っている。
三河の平地部に祀られた神社では、どこでも観られるものにしか遭遇しなかったが、ここ神明社で久々に面白いものに遭遇した。
この祠の祭神に関する情報は見当たらなかった。
本殿に対して反対側の北東の角にはコンクリート造のプレーンな縁石を持つ長方形のプールがあって、やはり中には砂利が敷き詰められ、その奥には江戸時代の郵便箱かと思えるような銅板葺の素木の箱が建てられていた。
●祭神不明の神棚
柱も素木で、コンクリートブロックを二つ重ねて柱が抑えられているようだ。
脇のやはり素木の社号標には「お札様」と墨書きされている。
日本の神はすべてお札になっているので、何の神が祀られているのかまったく判らない。
地元の人たちのための社だ。
祀られている場所から推測するに、客人神(マロード)で、名称はもともと不明だったのかもしれない。
郵便箱かと思った箱は神棚のようだが、現場では「焼却札の受付箱?」とかトンデモないことを考えていたので、神棚内の札を確認することはしなかった。
縁石の手前には大きな拝石が据えられていた。
面白い!
ここに寄って、本当に良かった。
こういう訳の判らないチープな外見のものに遭遇するのが、小生の行なっているツアーの最大の楽しみなのだ。
表参道に戻り、鳥居の近くまで引き返してくると、歌舞伎小屋の西側面の壁の波トタン板の異なった錆び方の継ぎ接ぎが非常に面白く、表参道から思わず撮影した。
奥の切妻屋根は向こうに向かって長く延びており、舞台になっている。
屋根瓦の見えるこちら側の部屋は舞台の袖部分で、楽屋もしくは倉庫になっているのだと思われる。
歌舞伎小屋脇からさらに石鳥居に近づくと、鳥居の内側の表参道から脇参道が西に延びており、2社の銅板葺の境内社が祀られていることに気づいた。
それは表参道側が金刀比羅様(大物主神)で、外側が津島様(建速須佐之男命)だった。
形式は2社とも同じなので、津島様の写真だけ紹介すると、社号標には「津島様」とある。
祭神のスサノオはアマテラスの弟であり、ここの祭神となっているトヨウケビメとは関係が薄く、ますます神明社の主祭神はトヨウケビメよりアマテラスの匂いが強くなる。
方形に砂利が敷き詰められているが、縁石は崩れているもののうっすら地表に露出してはいる。
基壇は階段状のコンクリートブロックで、大きな河原石の拝み石が前に据えられていた。
石鳥居まで戻って、社頭の外側に出ると、社頭を別にして瓦葺切妻造棟入の「秋葉様」が祀られていた。
表道路から別の参道が延びており、社殿前両側には笹竹が立てられ、注連縄が張られている。
社内を観ると、部屋の真ん中に明治時代のガス燈を思わせる衣裳の、総銅板造の雪洞(ぼんぼり)が設置されており、社内正面奥の棚上には高さが1.2 mくらいある総素木の神棚が祀られていた。
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謎のある金沢町の新明社から牟呂松原幹線水路に戻りましたが、それにしても久々で面白いものが多い神社と遭遇したものです。三河の平野部の神社に面白い神社がほとんど見当たらないのは、豊川が暴れ川であったことから、残るものが無かったのでしょうが、金沢町はまだ上流部に当たり、洪水被害は早く治る地域だったと思われます。
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