今朝平遺跡 縄文のビーナス 7:今朝←袈裟
豊田市足助町の國光稲荷神社(くにみついなりじんじゃ)の祀られた真弓山の足助川(あすけがわ)の流れている北側の麓に近い場所には今朝平八幡神社が祀られていました。今朝平八幡神社は今朝平遺跡にもっとも近い場所に位置する神社ですが、ここにやって来たのは3度目になります。
八幡神社の総本宮は大分県宇佐市の宇佐神宮で、創建は第29代の欽明天皇(きんめいてんのう)32年(西暦571年?)とされている。
571年というのは飛鳥時代が始まったとされる592年以前の時代に相当するが、小社の多い稲荷神社を除けば、もっとも多い支社を持ち、その数は約44,000社とされている。
総本宮の祭神は以下の3柱で、それぞれの神のご利益は以下とされている。
足助町という土地柄で幹線道路に面して登り口があり、河川に入り口が面した山の麓に近いとはいえ、街を見下ろせる山壁上に位置しており、当てにされるご利益は以下の事項が主だと思われる。
神社のご利益に関しては興味を持っていなかったのだが、八幡神社は何となく農業に関するご利益が中心ではないかと想像していたのだが、そうした項目は見当たらないのが意外だった。
今朝平八幡神社に登っていく道の入り口は三叉路になっている今朝平交差点に面しており、交差点から今朝平八幡神社を見上げると、スイッチバック式の通路が上方に向かっているのが、白い手すりを持つ通路であることから、確認できる。
その白い手すりが交差点から確認できる場所まで登って今朝平交差点で折れている県道33号線を見下ろしたのが以下の写真だ。
この登り通路は最初の折り返しまでは石段で、折り返して以後はコンクリートでたたかれたスロープになっており、上記写真手前の通路の敷居で、通路は左に折れている。
交差点に面した部分には今朝平八幡神社を示すものは何も存在せず、この登りの通路は参道とは呼べない通路で、山に入るための一般道となっているのかもしれない。
通路の敷居を上がって左折するとすぐ、左手の短い石段上に西向きの石造八幡鳥居、その右手に社号標が設置されている。
石鳥居に掛かっている石造社頭額には「八幡宮」と浮き彫されている。’
鳥居の正面奥10m以内に社殿が存在し、周囲は社叢で包まれている。
鳥居をくぐって社殿前に至ると、石段を持つ1mほどの高さに組んだ石垣上に瓦葺切妻造で、腰板部分以外は吹きっぱなしになっている覆屋が設置されていた。
石段の下で参拝して覆屋内を見ると、中央に流造茅葺の今朝平八幡神社。
右脇には不明の板葺境内社が祀られていた。
この今朝平八幡神社覆屋の左脇には朱の千本鳥居が並んでいる。
千本鳥居脇には「伏見稲荷大明神」の社号標。
千本鳥居の正面奥には今朝平八幡神社覆屋の意匠をそのままスケールダウンした覆屋が見える。
千本鳥居をくぐり抜けて、伏見稲荷神社の覆屋前に出ると、覆屋の軒下にも「伏見稲荷大明神」と白文字の書かれた額が掛かっていた。
覆屋内には板葺の社が納められている。
今朝平八幡神社覆屋を挟んだ反対側に回ると、頭の尖った石を鎖でつないだ玉垣内に珊瑚朱色(さんごしゅいろ)の混じった石が小型の河原石を並べた基壇上に置かれていた。
珊瑚朱色から「粘土」の存在を感じたので、『地域地質研究報告 足助地域の地質』(山崎 徹・尾崎正紀)で調べてみると、三河地域の砕屑岩脈に関する岩相に関して以下のような記述があった。
この地域では見た記憶の無い石なので、足助川の上流に砕屑岩脈の存在する地域が存在するのだろうか。
この石に関して傍に以下の案内板が立てられていた。
この案内板を見るのは3度目だったが、今回初めて今朝平遺跡に寄ったことから、「今朝平遺跡」の「今朝」は「袈裟かけ石」に由来する可能性があることに気づいた。
参道を戻って、石鳥居内から足助町の町並みを見下ろすと、狭い範囲だが、足助川に沿って建ち並ぶ民家の屋根群を眺望することができた。
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今朝平八幡神社を下って県道366号線に入り、西に向かい、本来の足助城の存在した飯盛山(いいもりやま)に向かうことにしました。