御用地遺跡 土偶 17:猫の前方後円墳
岡崎市の古墳群を離れ、御用地遺跡の南々西5kmあまりの安城市内に位置する塚越古墳(つかごしこふん)に向かったのは昨年の12月中旬のことでした。
塚越古墳は丘陵の端に位置しており、丘陵上で塚越古墳に向かう通路を探したのですが、塚越古墳は私有地の奥に位置しており、近づくことができませんでした。
やむなく、丘陵下の田畑地側からアタックするために丘陵の南東側に迂回したのですが、丘陵の端の土手は上記ヘッダー写真のように全面が森になっており、登れそうな土手ではありませんでした。
丘陵に沿った農道を愛車で走っていると一ヶ所、丘陵下から斜めに丘陵状に上がっていく、荒れた通路が設けられていた。
その通路は、傾斜角度が30度近くあり、この上には「願力寺」という寺院があるので、その寺院の通路ではないかと思われた。
上記写真の破線部分に手前(前方部)から向こう(後円部)に塚越古墳が延びているのだが、安城市博物館の下記の資料の写真を見ていたので、
通路を登って、目の前にあった枯れ草の山が塚越古墳とは思えなかった。
それで、上記最初の写真内の破線部分の左手側の土の盛り上がりが塚越古墳のようだったので、そちらを見に行こうとしたのだが、竹が繁殖し、そこに朽ちた竹が絡み合っていて、そちらに進むことができなかった。
自治体が測量調査を行なった時とは大きく環境が変化してしまったのだと思い、墳丘を確認することができずに、その日は退却した。
3月の初旬、ふたたび塚越古墳にアタックした。
今回は下記の墳丘測量図で塚越古墳の向きが明らかになっていたことで、
前回、枯れ草の山としか思わなかった部分が前方部で、以下のように方墳の形が崩れているものであることが判った。
後円部を観るために墳丘の麓に分け入ることが難しそうなので、前方部に登ることを決意したのだが、いかにもマムシの棲家になっていそうな雰囲気で、冬でこの状態なので、夏なら背の高い雑草で覆われて、登るのも不可能だったことだろう。
前方部の上に上がると、行く手に後円部が盛り上がっているのが見えた。
すると、突然前方の草むらから大きなキジ猫が飛び出して右手に向かった。
とっさに舌打ちして「逃げなくていいんだヨ」と合図を送ると、その大猫は立ち止まって、こっちを振り返った。
墳丘上には中央に前方部と後円部を結ぶ草の割れ目ができており、通路があるようだった。
猫とともに立ち止まっていたのだが、後円部に向かって1歩進むと、今度は左手の草むらから漆黒の大猫が草の上まで飛び上がり、キジ猫とともに右手の墳丘下に姿を消した。
中央通路を進んで後円部の麓に近づくと、以下のような感じ。
左手には願力寺の建物、右手は森になっている。
後円部に登って、すぐ前方部を振り返ると下記のように左手と前方部の向こう側は竹藪。
竹藪の切れ目から丘陵下の田畑地が眺望できる。
墳丘上全体が草むらで完全に覆われている。
円丘に見えた後円部の頂上は、実際にはほぼ平らになっていた。
後円部と前方部の間の南側のくびれの麓に教育委員会の製作した案内板『塚越古墳』が建てられていた。
市指定史跡
4世紀末(※古墳時代前期)の前方後円墳です。全長は46m、後円部の高さは4.5m、前方部は1.6mあります。後円部の裾まわりと後部、それに前方部の西側とがけずりとられています。1950年(昭和25)墳頂の一部が発掘され、碧玉製紡錘車破片と鉄製工具破片(※後に鉄剣と判断)、土師器片が発見されました。
高く大きな後円部と、低く長くのびる前方部をもつ、矢作川流域(※矢作川まで2km以内)最古の古墳(※現在、最古の古墳は二子古墳とされている)です。
昭和55年3月31日 ※=山乃辺 注
発掘では石室には当たらなかったため、主体部は粘土郭ないしは木棺直葬の可能性が高いと考えられている。
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こんなに荒れ果てた古墳に登ったのは初めてだが、丘陵の外れに位置することから、竹藪を払えば、後円部からの眺めは絶景となるだろうし、丘陵下からも古墳が眺望できそうなのだが、雑草を整理するだけでも大きな労力が必要なので、自治体が予算を付けない限り、美観を保つのは難しそうです。
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