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御用地遺跡 土偶 64:青面金剛の持物

本刈谷遺跡(刈谷市)と御用地遺跡(安城市)を結ぶレイラインを辿ってやって来た岡崎市の長瀬八幡宮ですが、大鳥居から神門に至る表参道には面白い樹木や巨石が点在していました。

●御用地遺跡 土偶

3MAP長瀬八幡宮

長瀬八幡宮の神門前には表参道の両側に巨石を積み上げた記念碑の塚が設けられていたり、巨石が単体で点在していた。
ペトログラフが刻まれている可能性があるので、気になる巨石は全てチェックしているが、神門に至る手前20m以内の左手に紺鼠と空色の縞模様になっている巨石が置かれていた。

11B長瀬八幡宮岩ドングリ

表面にはヘラで突いたような複数の窪みのある巨石が置だった。
人為的な線刻などは見られなかったが、この巨石を器にして、上面の窪みにドングリが入れられていた。

11長瀬八幡宮ドングリ

すべてのドングリが殻斗(かくと:キャップ)が外れたもので、殻斗が混じっていないことから、誰かがこの周辺に落ちていた殻斗の外れたドングリを拾い集めて、ここに入れたのだと思われる。

それはともかく、表参道の正面に位置する神門は瓦葺の四脚門で両袖には同じく瓦葺の木柵が延びていた。

12長瀬八幡宮神門

門をくぐり抜けると、正面30mほど奥に拝殿があり、その左右には境内社が並んでいて、神木や社叢がそれらを取り巻いているものの森は濃くない。

13長瀬八幡宮拝殿

瓦葺入母屋造平入の拝殿の前面は左右に舞良戸(まらいど)、中央に格子戸が閉め立てられている。

14長瀬八幡宮拝殿

拝殿前の賽銭箱には真鍮の徳川葵紋が付けられていた。

15徳川葵紋神紋

徳川葵紋の使用が許されていることに関して、神門脇に掲示された『長瀬八幡宮由緒』には以下のようにあった。

天正年中(※安土桃山時代1573年〜1592年)家康関東へ移封の后田中兵部岡崎城主となるや建物石垣を奪取り城構に用いらる為に社運大いに衰えしも家康の崇敬変る事なく慶長五年大軍を率いて関ヶ原へ向う途次康馬を下りて夜中歩いて八幡宮に詣で祈願する所あり其の後社殿を修復し慶長八年(※江戸時代初年度1603年)五月神領六十石を寄進し祖の支族たる板倉氏をして祭祀を掌らしむ    (※=山乃辺 注)

拝殿前で参拝したが、『長瀬八幡宮由緒』には以下のようにある。

祭神 応神天皇 息長足姫命

惟れば後冷泉天皇の永承七年(※平安時代1052年)陸奥の豪族安倍頼時反乱を起し其の勢力烈しく国司を追い出だし天皇の命に從わず天喜七年(※平安時代1059年)鎮守府将軍源頼義天皇の命により頼時を討たんと此の地に来るも連日の雨に矢作川渡るを得ず頼義斎戒沐浴し八幡宮に祈る神の霊験現れ鹿群を成して水に入りて流れを塞ぐ頼義部下を率いて浅瀬を渉る依て此の地を鹿の渡という
頼時の勢強く頼義の軍は戦いに利あらざりしも常に八幡大神の守護を頼み苦戦の末頼時を降伏せしめ再び追討して奥羽を平定し翌六年京都に凱旋の途次此の地に馬を駐め八幡大神の加護有りし事を思い康平六年(1063)社を建て応神天皇を祭り息長足姫命を合祀する是即ち当八幡宮なり             (※=山乃辺 注)

2MAP長瀬八幡宮

拝殿の右脇に回ると回廊が奥に延びており、回廊の正面から、回廊内の本殿脇には境内社の熱田社と、その裏面に重なるようにもう1社の境内社が祀られていたが、ネット情報によれば、それは山王社だという。
拝殿の脇を奥に進むと、本殿が銅板葺入母屋造の珍しい建物であることが判った。

16長瀬八幡宮本殿

屋根の銅板は黒っぽく染まっており、側面はほぼ窓になっている奇妙な建物で、雰囲気は寺院の堂のようだ。
上記写真右下に見える千木と鰹木の乗った屋根が熱田社。

本殿の反対側(西側)に廻ると、本殿脇に3社の境内社が祀られていた。
本殿側から秋葉社、御鍬社(みくわしゃ)、伊勢社だが、気を惹かれたのは秋葉社と御鍬社の間の少し奥に祀られた庚申塔(こうしんとう)だった。

17庚申塔

岡崎御影石の基壇上に3つに割られた青面金剛(しょうめんこんごう)石塔が補修されて置かれていたのだ。
これを庚申塔と言う。
庚申塔は愛知県では希少なもので、三河地区では初めて遭遇した。
しかも青面金剛像が浮き彫りされた庚申塔だ。
尾張では庚申塔は数点、遭遇しているものの、青面金剛像が浮き彫りされたものは1点しか遭遇していない。

庚申塔の「庚申」とは干支(えと)の一つで、干支を示す場合は「かのえさる」と読む。
なぜ「庚申」なのか。
庚申塔とは道教に由来する庚申信仰に基づいて造立される石塔のことだが、道教の三尸説(さんしせつ)では、生まれた時から人間の体内には三尸虫(さんしのむし)が存在するとされ、庚申の日(60日に1度巡ってくる日)の夜、本人の眠っている間に三尸虫が天帝にその人間の悪行を報告しに行くとされている。
天帝に悪行を報告された人間は寿命が縮む罰を受けるので、庚申の日の夜は三尸虫が身体から抜け出さないよう自ら見張るため、集団で眠らずに夜を過ごす庚申待(こうしんまち)という行事を行ってきた。

日本では平安時代から公家や僧侶の間で行われ、江戸時代までには武家を通じて庶民の間に広まり、現在でも行なっている地方があるという。
これまで遭遇した庚申塔の数から、庚申待は関東圏では盛んであり、愛知県では低調な信仰であることが容易に推測できる。

日本では近年まで、堅気の女性が夜一人で出歩くことはできなかったが、庶民の間では、庚申待に参加するという名目で、朝まで大ぴらに出歩くことの口実にされた側面がある。
庚申待する人々は朝まで眠らないよう、すごろくや花札をしたり、太鼓や三味線で騒いだりと、行事を楽しんだ(?)に違いない。

長瀬八幡宮にある庚申塔は両手を合わせて印を結んだ(削り取られているが)六臂(ろっぴ:6本の腕)の青面金剛が足で邪鬼を踏みつけている(磨耗して認識できないが)。

上記、「邪鬼」と書いたが、小生もこの項にコメントいただいた大山 亮さんの「三猿」説の方が有り得ると思いますので、「三猿」に修正します。
ただし、「三猿」の場合は青面金剛が足で邪鬼を踏みつけているのでは無く、正面金剛の枠と「三猿」は別枠の中に表現されたものとします。
「三猿」の詳しい説明はこのページ下欄の大山 亮さんのコメント2本を参照してください。
尚、「三猿」とは「見猿・聞か猿・言わ猿」の三匹の猿のことです。

その青面金剛の頭上左右には陰陽を表す月と日が見える。
青面金剛は4本の腕に鉾・日輪・矢・弓を持っている。
青面金剛の持ち物のうち、日輪・矢・弓は土偶と関係があるとみている八臂弁財天が共通して持っている持ち物である。
偶然とはいえ、土偶の出土した遺跡を結ぶレイライン上に森越辯戝天が祀られ、八臂弁財天と共通する持ち物を持つ青面金剛が祀られているのは面白い。
しかも、よりによって、青面金剛はおそらく、三河ではここにしか存在しないものである可能性が高いのだ。

青面金剛は道教に由来するものの、日本の民間信仰として独自に発展した、三尸虫を押さえる尊格の神であり、庚申講の本尊として祀られるが、庚申待をする部屋には、その青面金剛像の掛け軸が掛けられる。

一方、本殿の東側には千本鳥居を持つ稲荷社だけが祀られていた。
そして、境内社のうち1社、源太夫社だけが神門に近い表参道の西側に位置する社殿の脇に参道の方を向いて祀られていた。

18源太夫社

瓦葺入母屋造の社で、社号標と参道を持っている。
社号標脇の案内書によれば祭神は以下となっている。

・乎止與命(おとよのみこと)
・孝徳天皇
・松平清康公(まつだいらきよやすこう)

源大夫社とは熱田神宮の摂社上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)のことで、日本武尊の義父に当たる尾張国造乎止與命(オトヨ)を祀った神社である。
孝徳天皇がなぜ合祀されているのか、案内書に説明が無く不明。
松平清康公は長瀬八幡宮に源太夫社を祀った松平廣忠(ひろただ)の父親である。

源太夫社に関して、『長瀬八幡宮由緒』には以下の記述がある。

〈※源頼義がここに康平六年(※平安時代1,063年)社を建て応神天皇を祭り息長足姫命を合祀〉爾来武将の崇敬厚く徳川の祖(※松平)親神(※室町〜戦国時代の武将)領を奉り廣忠(※戦国時代の武将)も源大夫社を創建し     (※=山乃辺 注)

廣忠がなぜ、源大夫社を創建したのは不明。
乎止與命の娘、宮簀媛(ミヤズヒメ)は日本武尊に嫁ぎ、息子の建稲種命(タケイナダネ)は日本武尊東征において、副将軍を務めた人物であり、廣忠は自らを日本武尊に見立て、自分を守ってくれる人物を与えてくれるよう、乎止與命を祀ったのだろうか。

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長瀬八幡宮に祀られた神のうち、土偶と関係がある可能性のある神は秋葉社の本質と言えるアラハバキだけかもしれません。
この次は同じレイライン上にある荒神社に向かいますが、荒神社の神も荒ハバキと考えるなら、このレイラインはアラハバキ・レイラインであるのかもしれません。

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