麻生田町大橋遺跡 土偶A 96:残された鎧堤
豊川市賀茂町村上の樋門を過ぎると大照山(おおてるやま)を迂回し終えた牟呂松原幹線水路(むろまつばらかんせんすいろ)は、しばらく真南に向かい、賀茂町村上の樋門の下流90m以内に位置する、賀茂町村上2番目の橋に到達しました。
賀茂町村上2番目の橋の橋上〈上記地図内(2)の場所〉から1番目の橋〈上記地図内(1)〉方向を撮影したのが下記写真。
賀茂町村上の樋門のすぐ下流から牟呂松原幹線水路の左岸側に設けられていた用水路(上記写真右端)は牟呂松原幹線水路のそれぞれの水路とほぼ等幅になって、3本の水路が流れる形になっている。
ここではそれぞれ水位が異なり、上記写真左端の松原幹線水路は水位が分割壁を乗り越えて、中央を流れる牟呂幹線水路に落ちている状態。
もっとも右端の用水路は水がほとんど無く、水底が露出している。
金沢町の途中まで農道として牟呂松原幹線水路の右岸に沿ってきた道は金沢町西峡(にしざわ)でしばらく離れていた県道69号線に吸収され、上記写真の牟呂松原幹線水路左側に沿った道路は県道69号線に戻っている。
牟呂松原幹線水路と県道69号線の両側は竹藪になっている。
上記賀茂町村上2番目の橋から下流80mあまりの賀茂町村上3番目の橋〈上記地図内(3)〉に到達。
橋上から下流側を撮影したのが以下の写真。
右端の松原幹線水路は変わらず分割壁目一杯の水位。
一方、左端の用水路は完全に土砂が堆積して、雑草で覆われている。
賀茂町村上3番目の橋から下流110m以内に位置する賀茂町村上5番目の橋〈上記地図内(5)〉に移動。
この橋上から上流側の賀茂町村上4番目の橋〈上記地図内(4)〉に向かって撮影したのが下記写真。
この部分では右端の用水路に途中から水が流れ込んだらしく、水路が復活している。
ただ、中央の牟呂幹線水路より水面はやや高そうなのだが、水はほとんど流れていないため、水面は牟呂松原幹線水路のようには波立っていない。
松原幹線水路は相変わらず分割壁を水が乗り越え牟呂幹線水路側に落ちている。
同じ賀茂町村上5番目の橋上から下流側を撮影したのが下記写真。
下流60m以内に位置する賀茂町村上の橋〈上記地図内(6)〉と、その向こう側に通っている東名高速道路の高架が見える。
賀茂町村上の橋に移動して橋上から賀茂町町村上5番目の橋方向を撮影したのが以下。
賀茂町村上の橋は少し高くなっているので、通ってきた上流側の橋が2本とも見えている。
そして、このあたりから分割壁がカーブではなく、角度を付けて水路の方向を変えているのが観て取れる。
上記写真を撮影した賀茂町村上の橋から鉄パイプを組んだ下流側の橋桁越しに下流側を撮影したのが下記写真。
鉄パイプの橋桁に救助用の竹棒が掛かっている。
ここから東名高速道路の高架まで90m以内。
その手前の常磐橋も見えている。
同じ方向に向かって牟呂松原幹線水路を見下ろすと、この橋の直下では右端の松原幹線水路の水位が牟呂幹線水路と同レベルに下がっている。
これは橋の直下の部分だけ分割壁が高くなっていることの影響だろうか。
このすぐ下流では分割壁が下がり、再び松原幹線水路の水位は分割壁スレスレに戻っている。
この橋を東側から西に向かって撮影したのが下記写真だ。
右側が橋桁を兼ねた土手になっているため、橋ではなく道路にしか見えないが、この下を直角方向に牟呂松原幹線水路が流れている。
この橋の向こう側を左右に横切っているのが県道69号線。
右側の土手は69号線に切り通しされているものの、さらに向こう(西)に向かって延びている。
この土手がどこに向かっているのか、航空写真でチェックしてみると、航空写真でも非常に確認し難いのだが、江戸時代に豊川に設けられた鎧堤(よろいづつみ)ではないかと思われた。
「鎧堤」とは豊川地域特有の名称で、一般には「霞堤(かすみてい)」が定着している。
霞堤とは河川本流の堤防の決壊を防ぐために、ところどころに流水を上流に向かって抜くための下流に向かってV字型に枝分かれした堤防のことだ。
最初から多少の洪水被害は覚悟した上で堤防が意図的に切って設けられた。
よくこんなことを思いついたものだ。
県道69号線もここから北側(上記写真右手)しばらくは豊川のもっとも外側の堤防上を走っている道路とみることもできる。
この下流80m以内に位置する常盤橋上から賀茂町村上の橋を撮影したのが下記写真。
下流側から見て初めて確認できたのだが、構造上では橋とは呼べないのかもしれない。
牟呂松原幹線水路と用水路はそれぞれアーチ型のトンネルを抜けて下流側に流れ出ているのだ。
常盤橋は橋名がネームプレートで明確に表示されていた。
常盤橋上から下流側を臨むと、牟呂松原幹線水路は東名高速道路の高架下を抜けているが、東名高速道路の高架柱には「照山橋(てるやまばし)」という橋名プレートが表示されていた。
この部分では牟呂松原幹線水路の分割壁は曲線ではなく、直線とジグザグで築造されており、なぜか日本的なデザインに見える。
そして照山橋直前まで3つの水路は、ほぼ等幅で流れてきたのだが、ここから上記写真左端の用水路だけが再び狭く戻されていた。
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豊川(とよがわ)の鎧堤は江戸時代に現在の豊橋市中心部を洪水から守るために主に豊橋市中心部の上流部に設けられたものです。「鎧」は「守る」の意味を込めた名称でしょう。昭和期の1965年に豊川放水路が完成すると、鎧堤は締め切られて連続した堤防に変更されています。