今朝平遺跡 縄文のビーナス 18:知多四国八十八ヶ所霊場開創者
愛知県知多郡阿久比町福住東脇(あぐいちょうふくすみひがしわき)の無名橋1から福山川に沿った南側の幹線道路を東に辿って、東北東230m以内にある圓通山興昌寺に向かいました。
福山川の右岸(北側)に位置する圓通山興昌寺前に至ると、興昌寺前の福山川には無名橋2が架かっていた。
無名橋2上からやって来た無名橋1方向を見るも、川が蛇行しているのと、福山川の両岸の土手に雑草が繁茂していて、無名橋1は見えなかった。
川床も右岸側の川床の50%は土が堆積していて、そこに雑草が生い茂っていた。
護岸は右岸はコンクリートブロックが張られていて変わりないが、左岸はコンクリートの柱が並んで打ち込まれ、その上に幅50cmほどの高水敷(こうすいじき)が通されていた。
一方、無名橋2上から上流側(東側)を見下ろすと左岸(下記写真右側)の高水敷は2段になっていることが見て取れた。
右岸(上記写真左側)の石垣には川床に降りるための石段が設けられていた。
右岸の奥には森に覆われた丘陵が存在するのが見えるが、その向こう側の麓には知多四国八十八ヶ所霊場13番の寺院があるはずだった。
無名橋2を渡ると、目の前に瓦葺切妻造平入の堂と、その奥に圓通山興昌寺(えんつうざんこうしょうじ)の山門があった。
興昌寺の山門下に愛車を駐めて、堂を見に来ると、堂の正面の板戸は開け放たれ、部屋の奥には銀糸の仏前幕が張られた壇が設けられていた。
堂の前に立つと、堂内の天井からは「半蔵行者尊」と墨書きされた桶型提灯が下がっている。
壇は3段になっていて、一番上の段には弘法大師像、地蔵菩薩像など、複数の仏像が並んでいるが、中央に巡礼姿の人物の着彩立像が奉られている。
この人物は黒い陣笠を被り、右手に杖、左手に数珠と菰(こも)?を持っている。
行者堂の軒下に掲げられた案内書には以下のようにあった。
知多半島の寺院を巡れば、すぐに八十八ヶ所霊場に遭遇するが、それを開創した人物が江戸時代の人物、岡戸半蔵行者だったのは初めて知った。
改めて圓通山興昌寺の山門に向かった。
石段下や境内には白地に「卍南無大師遍照金剛」の文字が入った幟が林立している。
石段の麓脇には案内書『圓通山興昌寺』が掲示されていた。
現在の圓通山興昌寺は曹洞宗寺院だが、四国霊場を開設したのだから、岡戸半蔵の時代には真言宗寺院だったのだろう。
石段を上がって山門をくぐると正面は本堂だが、左手脇に弘法堂が設けられていた。
瓦葺切妻造の建物の右端だけ、屋根を抜いて天井を上げ、弘法堂が設らえられている。
向かって右の柱には白地に「卍14番弘法大師」の表札が付いている。
興昌寺は宗派が異なるので知多四国八十八か所霊場には含まず、弘法堂を四国八十八か所14番霊場としているのだ。
弘法堂の左手壁には大きな草鞋や千羽鶴が奉納されていた。
藁が手に入らなくなった昨今、草履に代わって千羽鶴となったのだろうが、草履であれば、全国行脚を行なった弘法大師に履いていただくものとする意味があるのだが、千羽鶴では大師に鶴に乗って飛んでいただくと解釈しておこう。
堂内を見ると、堂内全体が黄金色に包まれていた。
天井から4本の金色の桶型提灯が「南無大師遍照金剛」と墨書きされて下がっており、五色の仏前幕を張り、金糸の布を敷き詰めた壇に同じく金糸の布に覆われた厨子に納められた弘法大師像が祀られていた。
弘法大師が、こうした金色づくしの中に奉られているのはあまり見たことがない。
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四国八十八か所霊場14番弘法大師から福山川上流にあるらしい、13番霊場に向かいました。