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麻生田町大橋遺跡 土偶A 65:鬼面と地蔵菩薩

津島市橋詰町の秋葉神社から北々東160m以内に位置する清正公社へ向かいました。清正公社は社名通り、加藤清正公を祀った神社です。加藤清正(通称、虎之助)は、永禄5年(1562年)6月24日に今の名古屋市中村区で生まれました。加藤清正の生まれた家の右隣が豊臣秀吉の実家でした。実は秀吉と清正は又従兄弟です。ただ、秀吉と清正は25才差なので、清正が生まれた時には藤吉郎(秀吉)はすでに実家を出ていたでしょうから、後に秀吉が近江長浜城主となり、清正が小姓として秀吉に仕えることになるまでは、ほとんど交流は無かったでしょう。清正は数え年3才で父親が亡くなり、5才で母親と、叔父が住んでいた現在の清正公社のある場所に身をよせて世話になりながら育ったのです。

●麻生田大橋遺跡土偶A

1MAP清正公社

2MAP清正公社

南北に延びる路地に面した現在の清正公社の社頭は南向きで、社頭前、右隣、路地を隔てた左手はいずれも空き地になっています。

1清正公社社頭

愛車を路地に駐めて社頭に立つと、路地に面した場所には加藤清正公の家紋である蛇の目紋(ヘッダー写真)を頭頂に刻んだ「清正公遺跡」道標(上記写真左下)。
その道標の背後には白地に「清正公社」と墨書きされた社号標。
境内には砂利が敷き詰めてあるが、ぬかるみになるのを防ぐためのもので、荒地にしか見えない。
10m近く奥に銅の鳥居がある。

鳥居は瓦葺吹きっぱなし棟入の拝殿を囲った玉垣の前に建てられている。

2清正公社銅の鳥居

鳥居をくぐると拝殿を通した奥は瑞垣で仕切られており、銅版葺の神門がのぞいている。

3清正公社拝殿

参拝して拝殿内を観ると、向こう側の欄間には左右対になった屋根神ではないかと思われる社、鬼の面と、鬼の面の写真、物語を描いた額が掛かっている。

4清正公社本殿

その先の瑞垣の奥には銅版葺の本殿が祀られている。
瑞垣も銅版屋根が葺かれている。

鬼の面は奉納されたもので、ガラスと素木の箱に収められていた。

5清正公社鬼の面

額内の絵は『清正幼少盗賊対峙之図』とも呼ばれている以下の絵だが、筆で「鬼面愕賊」というタイトルが書き込まれており、境内にこの絵と鬼面に関する伝承を紹介した清正公社の案内板があった。

6『清正幼少盗賊対峙之図』

叔父の家があった所に明治18年、清正の遺徳を偲んで社が建てられました。当地には幼い清正の才覚を偲ばせる逸話として、叔父宅に盗人が押し入った時のこと、清正は鬼の面を持って大きな葛籠(つづら)の中に忍び込みました。そうとは知らない盗賊が運び出した葛籠を町外れで開けた途端、鬼のお面を被った清正が飛び出し、盗人を退散させたというお話が伝わっています。

清正公社の本殿はもっとも基本的な銅版葺流造の小社だった。

●上河原地蔵堂

清正公社の社頭の路地の向かい側には清正公社の方を向いた瓦葺入母屋造棟入で2層屋根を持つ建物があった。

7上河原地蔵堂

敷地には垣根などの一般道との境になるものは一切無く、誰でも立ち寄れるようになっており、左手には駐車場もあった。
単独の堂としては異例の立派な堂だ。

この堂の正面の扉は開口されており、堂内の土間まで入ることができるようになっているが、土間の奥には花立や線香台が置かれ、その奥は板の間で、板の間の奥にガラス戸で仕切られた部屋がある。

8上河原地蔵堂

天井からは「南無地蔵大菩薩」と墨書きされた長提灯が列をなして下がっている。
カラフルな装飾画は波間に漂う牡丹の花の装飾された器の図だ。

ガラス戸内の天井からは紺地に銀糸で刺繍された鳳凰の模様のある豪華な仏前幕が下がっており、中央には錫杖を持った地蔵菩薩の等身石仏立像。
両脇にも地蔵菩薩の等身石仏坐像が脇侍として鎮座している。
3体とも、美しい帽子と涎掛けが与えられている。
堂の入り口の柱には『上河原地蔵堂』の案内板が掲示されていた。

この地蔵尊は身のたけ二尺五寸蓮台の上に立たせ給う石身の霊仏にましまし昔より眼病又は乳の授かる地蔵として信仰厚く祈願の女難産の時は身代わりとなりて、全身汗をかき給い汗かき地蔵とも言われている、かかる名高き地蔵尊なれば近隣まれに立派なお堂です。
  ご縁日
初地蔵 新暦一月二十四日
地蔵盆 新暦八月二十四日

地蔵菩薩は尾張地域ではよく祀られている石仏だが、地蔵菩薩像3体だけのためにここまで立派な堂が設けられている例は記憶に無い。
よほど、霊験の強い地蔵菩薩なのだと思われる。

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「上河原」は清正公社と上河原地蔵堂のある町名となっている地名だが、上河原地蔵堂もレイラインAG内に位置するもので、津島は神仏習合の匂いの濃い地域で、ここまで巡ってきたほとんどの神社の裏面には寺院が存在している。

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