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麻生田町大橋遺跡 土偶A 144:複雑な樋門

豊橋市の羽田上神社から、下大塚橋に戻り、牟呂用水左岸(南側)を下流に向かいました。

下大塚橋から下流160m以内に架かっている築地町の名称不明の橋に移動。
橋上から上流側を眺めると、下大塚橋すぐ下流まで両岸には水色の鉄格子の柵が巡らされていたのだが、途中から右岸(下記写真左手)は黒茶色のワイヤー・フェンスに変わり、左岸は生垣や鉄格子の柵、鉄パイプのガードなどが入り混じった状況に変わった。

右岸(上記写真左手)は白いコンクリートの護岸に変わり、さらに途中から高水敷の上の段が繋がったまま、低く変わっている。
左岸は下大塚橋下流側から始まった護岸上の生垣や灌木が変わらず続いている。

この名称不明の橋上から下流側を眺めると、左岸(下記写真左手)も右岸と同じ白いコンクリートの護岸と黒茶色のワイヤー・フェンスに変わり、護岸上に繁殖していた灌木は姿を消し、点在する並木と並木の根元の雑草のみに変化した。

50mあまり下流には築地橋が見えている。

その築地橋に移動。
築地橋の側道橋上から上流側を見ると、10m以内にアルミパイプの水管が架かっていた。

水管が渡れないように両岸が鉄柵で囲われている。
アルミパイプの水管の右岸(上記写真左手)上流5mほどの高水敷にはコンクリートの立方体のボックスが設けられていた。
高水敷内を流れている用水路がこのボックスで分岐しているようだ。
そして、このコンクリートボックスの場所に牟呂用水路に少し段差があり、段差のすぐ上流から波が立っている。
水面が波立っているのは3.5km上流にあった水路の段差以来だ。

築地橋の下流側には側道橋が無く、橋を通る車も多いので、築地橋脇の歩道上から下流側を見ると、右岸(下記写真右手)のワイヤー・フェンスが白いガードレールに変化した。

右岸の牟呂用水沿いの歩道が無くなり、車が用水沿いを走るようになったからだ。

築地橋から一気に下流290m以内に架かっている小松橋に移動。
用水路内に変化が見られなかったからだ。
小松橋上から上流側を眺めると、ここにはすぐ橋の脇にエメラルドグリーンにペイントされた水管が掛かっており、20mあまり上流で右岸(下記写真左手)下側の高水敷の20mあまり上流で、水路に段差が設けられていた。

高水敷の段差は高さだけではなく、幅も上流側の方が少し広くなっている。
GoogleMapの航空写真を見ると、この部分にはコンクリートボックスが設けられているのみで、高水敷に段差は見られない。
最近になって、コンクリートボックスを利用して高水敷をコンクリートボックスと同じ高さに改変されたようだ。
おそらくここにも水路の分岐が存在するのだろう。

小松橋から下流150m以内に掛かった花田町の名称不明の橋に移動。
橋上から上流側を見ると、左岸(下記写真右手)の高水敷は幅が30cmほどに広がり、それに伴って雑草が繁殖し、両岸とも歩道が姿を消し、それに伴って護岸上は両岸ともガードレールになった。


花田町の名称不明の橋から80mあまり下流に架かった同じ花田町の無名橋に移動。
橋上から下流側を眺めると、右岸(下記写真右手)にも雑草が見られるようになり、下流25mあまりの右岸に樋門が存在していることに気づいた。

左岸側から樋門の設備を眺めると、左手にモーターらしき設備があり、水路に少しはみ出す形で防音目的と思われるコンクリートの箱が設けられ、コンクリートの箱からこちら岸に向かって低いコンクリートの堰が延びている。

この堰はコンクリートの箱の右手に見えるレンガ色の水門の取水口の底辺に高さが揃えられており、牟呂用水の水深が堰を越えると、分岐用水路に水が流れ込むようになっているようだ。
コンクリートの箱が水路側にはみ出したのは水路に道路が迫っていて、樋門の設備を設置するスペースが無かったからだろう。
現在、レンガ色の水門が少し空いているのだが、門の開口部に牟呂用水の水面が達してなく、高水敷内の水路にも水はまったく無いように見えた。
これを見ると、3つの水路とも繋がっているようで、ここから脇に分岐している用水路に流す高水敷内の水が不足している時に牟呂用水の水を取水するための樋門のようだ。
この写真は冬期の状況だが、分岐用水路に水が必要とされる状況になると、モーターを使用して牟呂用水の水を分岐用水路に汲み上げるのだろう。

樋門のある側に迂回すると、牟呂用水の水を分岐用水路に流す関連の設備にはブルーのペイントがほどこされていることが判ってきた。

樋門の水門のハンドルがブルーで、ステンレスのハンドルはモーターを使用しないで牟呂用水の水を分岐用水路に取水する時に使用するためのハンドルと、高水敷内の水が牟呂用水内に落ちないようにするための高水敷内の水を止めるための水門のハンドルであるがことが解ってきた。
あくまでも牟呂用水の水と高水敷内を流れる水は分離されているのだ。

この花田町の樋門脇から140mあまり下流の上坂津橋に移動。
この上坂津橋は牟呂町に位置している。
いよいよ、牟呂松原幹線水路の終点が近づいてきたことになる。

上坂津橋上から上流側を眺めると、高水敷は右岸(下記写真左手)側の1段飲みに変わり、両岸の白い波板のガードレールが焦げ茶色のパイプを3本並べた新しい規格のガードレールに変わった。

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個人的に牟呂用水の名称の元になっている牟呂町の「ムロ」は南朝の女帝である小松天皇(小門院元子内親王)の門院号に由来していることが、noter鈴木超世志氏の記事によって判ってきています。つまり、“女性”を表す言葉です。

『地文学への招待-「小室山」(串呂哲学研究ノート第278号)』
https://note.com/quanro/n/n5c62a3536488

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