中条遺跡 土偶B 5:木曽三川の輪中
岐阜県海津市海津町にある治水神社を出て、その北側に位置する木曽三川公園(きそさんせんこうえん)に向かったのですが、その入り口は公園の最南端部にありました。
入り口脇に愛車を駐めて、公園内を北に向かうと、最初に展望塔と噴水塔らしき設備が目に入ってきた。
気温が低いので人は少なく、園内にいるのは、ほとんどがカップルだった。
興味があるのは展望塔と、この公園の何処かに保存されている輪中の農家のみだ。
展望塔の入場料は大人600円となっており、展望塔を含む施設には企画展の展示室もあった。
まっすぐ、エレベーターに向かい、高さ56mの展望室へ上がった。
南側を見下ろすと、すぐ足元の公園入り口スペースと、その向こう側にさっきまでいた、治水神社の杜が見下ろせるが、社叢に包まれて社殿は見えない。
治水神社の向こう側には天橋立のように、左手の長良川(ながらがわ)と右手の揖斐川を別ける締切堤が河口方向に向かって蛇行しながら延びている。
ここの位置と高さでは海は観えなかった。
展望塔から伊勢湾までは14.3km近くある。
上記写真の長良川の対岸はさっき寄って来た長島で、その一部に輪中(わじゅう)がもっともわかりやすい形で存在しているのを見つけた。
長良川(ながらがわ)と木曽川に挟まれた長島に、見事に堤防に囲われた中に住宅や森、田畑らしきものが見える。
地図で調べてみると住所は「愛知県愛西市(あいさいし)立田町福原」となっており、地図内には以下の表記が存在する。
航空写真で俯瞰してみると、堤防は上流に向かう船の形をしている。
航空写真をUPにしてみると、現在も田畑が主になっているのが判る。
輪中の断面図は以下のようになっている。
濃尾平野は地盤運動と木曽川の堆積作用のために東が高く、西の養老山地に向かって低くなっている。
なので、三大川の木曽川・長良川・揖斐川は濃尾平野を迂回する形で、濃尾平野の西側に束になって流れており、大雨が長く降り続くと、洪水のリスクの高い地形になっている。
川底も東の木曽川から西の揖斐川に向かって深くなっている。
輪中の堤は以下のような工程を経て輪になった。
木曽三川の合流しているこの地域では洪水のたびに山岳部から大量の土砂が流れ出て河川に堆積し、上記図版❶のように自然の細長い高地ができた。
人々はこの自然高地に家屋を建て、堤防内に水田を開墾し、村ができた。
自然高地の住民は洪水の被害を防ぐために自然高地をつないで、その上流側に図版❷のように尻無堤と呼ばれる形式の鍵型や半円形の堤を築き、輪中の原型ができた。
しかし尻無堤は洪水時には下流側から川水や伊勢湾からの海水が浸入するのが悩みだった。
ただ、尻無堤は浸入する水とともに肥えた土が流れ込む恩恵に預かるというメリットもあった。
伊勢湾への河口に近い地域の海水の浸入のある尻無堤の輪中では図版❸のように海水の浸入を防ぐため、尻無の部分に潮除け堤を築いた。
こうして、輪中の完成形が成立したが、肥えた土を輪中に呼び込むために意図的に潮除け堤を開けることもあったという。
展望塔から北側を見ると、日本武尊が荒神を退治するために登った伊吹山や 石田三成の指揮する西軍と徳川家康を総大将とする東軍が天下分け目の戦いを行なった関ヶ原方面が眺望できる。
足元の木曽三川公園内には保存されている輪中の農家も見下ろすことができた。
この地域特有の冬の季節風である「伊吹おろし」の影響を少なくするために、上記写真のように北側に防風林が設けられ、背の高い水屋(洪水対策のための家屋)は屋敷の北西角に建てられることが多かったのが解る。
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輪中農家の見学は木曽三川公園にやって来たもう一つの目的だったので、展望塔を降り、展示室を駆け足で観て、輪中農家に向かうことになりました。