麻生田町大橋遺跡 土偶A 122:三上町の“いずみさま”
急ぎの仕事が入って記事の書き込みが1日以上ズレ込みました。
豊川市三上町(みかみちょう)緑野神社(みどのじんじゃ)の覆屋は腰板部分以外は吹きっぱなしになっている建物でした。
覆屋内の本殿は表参道とは直角の南南東を向いており、午後の緑野神社覆屋は屋前が開けているので強い日差しが当たっていた。
本殿は覆屋内いっぱいに1棟だけ祀られている。
覆屋内に頭を突っ込むと、必然的に本殿の軒下に入ってしまう感じだ。
覆屋の軒下にも立派な注連縄が張られていたが、本殿の軒下にも注連縄が張られていた。
中央の太さと両端の綱の太さの落差の大きい特徴的な注連縄だ。
注連縄の上の蟇股(かえるまた)には牡丹の浮彫が装飾されている。
牡丹の蟇股を支える頭貫(かしらぬき)は珍しい丸みを帯びた凝った造りで、唐草が牡丹に向かって伸びている。
蟇股は本殿の手前の頭貫にもあって、こちらには水煙が装飾されていた。
覆屋の中に入って参拝したが、当日、祭神は不明だったが、後日調べてみると、祭神は以下の4柱となっていた。
速玉男命と事解男命は祀られているのが珍しい神で、小生の記事では2度目の登場だ。
『日本書紀』によれば、一緒に祀られているイザナギとイザナミが夫婦喧嘩をしている時にイザナギはイザナミとの別れ際に唾を吐いたが、唾を吐く神を「ハヤタマノオ」と呼び、イザナギ・イザナミの夫婦関係を掃う神を泉津(ヨモツ)事解之男と呼ぶと説明している。
日本神話では唾は“契約”と関連するツールとなっているが、イザナギがイザナミとの別れで唾を吐いたのは離縁を明快にさせるためだったとも解釈できる。
つまり、緑野神社は縁結びの神社とは真逆の縁解きの神社なのだ。
唾を吐く呪詛に関しては下記の記事でも紹介している。
●三上町に祭られた“いずみさま”
ところで、緑野神社の祭神に関してはまったくの別説も存在する。
直前の記事の後書で「社名が何かを囁き掛けて来た」と書いたが、社名の“読み”を知った時、「緑野=ミドノ」という読み方は、どうにも妙であり、「ミドノ=御殿」からの当て字変更の可能性があると考えたのだが、エビデンスは無かった。
ところが、私の直感を裏書きしてくれる人物が現れたのだ。
地元三河の串呂哲学の研究者にしてnoterの鈴木超世志氏である。
ここ三上町(みかみちょう)の三上町信号の西側には和泉式部の歌碑があり、近くに長慶天皇と同じ名称の長慶寺があることから、緑野神社を南朝関係のお宮ではないかというのだ。
そして、鈴木氏はここの町名「三上(町)=御上」の秘密の方を気づいていた。
ところで、長慶天皇とは日本の第98代天皇および南朝第3代天皇(在位:1368年3月〜1383年) のことだ。
和泉式部は平安時代中期の歌人だが、ここ三河では長慶天皇の身代わりとなった後醍醐天皇皇女「懽子(よしこ)内親王・宣政門院」の「宣=泉」から三河地方では宣政門院懽子内親王を和泉式部に譬え、「いずみさま」と称して祭ったとする考証があるという。
そして、緑野神社の本来の祭神は懽子内親王か、その関係者である可能性が濃いという。
この説を裏書きしているのが、やはり地元の南朝史の研究者である藤原石山氏であり、鈴木超世志氏から以下の一文を紹介していただいた。
文中の緑野の池は地図を見ても、該当する池が見当たらないが、“いずみさま”と呼ばれた懽子内親王は水神・竜神のメタファーともみられる。
同じ三河である現在の北設楽郡(きたしたらぐん)東栄町月には御殿村が存在した。
緑野神社と旧御殿村はほぼ33km離れている。
東栄町月には瀬織津姫命を祀った槻神社(つきじんじゃ)、月小学校跡が残っている。
瀬織津姫命は『ホツマツタヱ』では「アマテル(ニギハヤヒ)」の妃となっている。
「月」に関して鈴木氏は「月は皇后を表わすのが原則ですが、東栄町の月は、南朝副統の長慶天皇(寛成)を表わします。」という。
その原理は以下の通りだ。
緑野神社祭神の祀られた本殿は美しい檜の素木の柱や板壁を持っている。
そして、その檜の躯体には赤みの強い杉の屋根部が乗っている。
●三河材
屋根の軒下部分は赤みの強い三河材が使用されており、躯体部分と製造された時代が異なるようだ。
三河の杉材は赤みが強いことが特徴で、艶が良く狂いが少ないため、ブランド力が強かったようで、江戸にも多くが出荷されていた。
三河の山奥に存在するうちの山も大杉が多く、国から報奨金が出たので今年初めて、行政から要望のあった一部を売却したのだが、直径1.5mくらいある大杉を15本くらい売却した。
現在はウクライナ戦争で材木が高騰していて通常のの3倍以上に高騰しているという。
うちの山は道路に面しているので、高額な方で、山の上にある3人でないと抱えられないくらいの巨木で質のよい真っ直ぐな杉が普段なら1本500円くらいだったという。
巨木だと高そうに思えるが、巨木を切り倒して道路にまで引きずり出すのが大変な作業であることは想像がつくだろう。
樹木の価格より人件費の方が高額なので、報奨金が出なければ、山の上の方の樹を切り出しても赤字になるのだ。
本殿覆屋を出て西側に回ると、吹きっぱなしの構造材の中に巨大な流造の屋根が見えた。
拝殿前の広場から表参道を下り始めて、10mも進まないうち、参道脇左手にカラスの羽根だと思われる抜けた羽根が積み重なっている場所があった。
いったい何事だと思ったが、肉片や血痕はまったく見えず、想像するに本体はイタチなどの四つ足の小動物に丸ごと食品にされてしまったようだ。
そこから10mほど参道を下ると、参道を完全に横切って巨石が地面に埋まっていた。
緑色岩だ。
●緑色岩にまつわる面白話
緑色岩は『日本大百科全書』によれば玄武岩や玄武岩質火砕岩が、比較的低温の変成作用を受けたものと定義されている。
この緑色岩に関する定義の話は笑い話のようで面白いところがある。
緑色岩の定義は当初、多くの学者ごとに定義され、例えば、ウェルナー、およびハイディンガー(と言われても二人ともまったく知らない人物だが)は角閃石,緑泥石,斜長石からなるものと定義したように、それぞれの学者がそれぞれの定義をし、ローズの場合は輝石,緑泥石,斜長石(オリゴクレースまたはラブラドライト)の割合で多数に分類した。
こうして緑色岩は次第に細別され、その中から多くの岩石が分離独立して,緑色岩は岩石名としての存在価値がなくなってしまっているという。
そして、オルポートのように、ついには緑色岩を岩石名から削除することを提案する人物まで現れた。
そして現在、緑色岩は岩石名としてはほとんど使用されていない。
石の名前にも栄枯盛衰があるのだ。
緑色岩から、さらに参道を10mも下ると、参道の左手の森の中に直径2mほどの干あがりつつある沼地があった。
ごく浅い沼地だが雨が降れば確実に池になりそうで、ここから参道脇に沿って延びる水路につながる浅い水路も存在している。
参道の社頭の目印にもなっている幟柱に近づくと、地面に多数の若いドングリが落ちていた。
素通りできないので、片手いっぱいにドングリを拾い、行きと同様、帰りも幟柱の基壇に紅葉した葉を置いて、その上にドングリを積んで撮影することになった。
上記写真左端の根も葉も無く、茎しかない奇妙な植物はマツバランというシダの一種だと思われる。
根も葉も無いのに茎が育つのは茎が胞子体だからのようだ。
しかし、調べてもマツバランが紅葉するという情報は見当たらない。
もしかして、新種のマツバラン?
(この項、終わり)
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3度目の正直で参拝することのできた緑野神社だが、三河でもっとも好きな神社の一社になった。
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