御用地遺跡 土偶 31:火中出産と前方後円墳
安城市の崖古墳(がけこふん)の南40mあまりに位置する姫小川古墳に向かいました。
未知の細い路地を避けて、住宅に沿った広い舗装路を南に向かっていると、右手に森が現れました。
12月下旬ということで、寒椿が満開になっていた。
この森に沿って歩道があり、歩道に沿って剪定された笹薮がある。
笹薮の中に歩道に向かって何か掲示板が設けてあるので、のぞいてみたら、教育委員会の製作した案内書パネル『姫小川古墳』だった。
国指定史跡 昭和2年10月26日指定
古墳時代前期(およそ4世紀)の前方後円墳です。墳丘長は65メートルほどあります。
浅間神社(※せんげんじんじゃ)のある後円部は、非常に高く造られています。一方、碧海台地を利用した前方部は低く細長いのが特徴になります。後円部の北東側から南西側にかけて幅10メートル、深さ2メートルの周溝がめぐっていました。葺石(※ふきいし)は見つかっていません。
桜井町の二子古墳とともに櫻井古墳群を構成するこの古墳は、三河における古墳時代の始まりを考える上でとても重要な史跡です。 (※=山乃辺 注)
この案内書には姫小川古墳の以下の調査図が掲載されていた。
調査図で、今観ている案内板は前方部の最も前部分の麓にあることが判った(図内❶)。
下記写真は案内板の脇から前方部に向かって撮影したものだが、少し奥に前方部の墳丘が盛り上がっているが、高さは2m以上か。
愛車を路肩に駐めて、調査図の南側を西に向かう姫小川古墳と住宅の間にある南側の路地に入って行き、姫小川古墳の墳頂に本殿を持つ東町 浅間神社の社頭に向かうことにした。
途中、前方部の墳頂部を側面から観たが、全面がクヌギだと思われる落ち葉に覆われていた(図内❷)。
後円部の南側の麓にあり、一般道に面した社頭(図内❸)に出ると、開けた場所があり、一般道に向けて「史蹟 姫小川古墳」と刻まれた古墳号標が建てられていたが、この前方後円墳は森に覆われており、全容を見ることはできなかった。
古墳名の「姫小川」は直前に寄ってきた姫塚古墳の「姫」と同じく、孝徳天皇の皇女綾姫と関係があり、
綾姫がこの地に訪れた時に保護したとされる小川氏に由来しているようだ。
一般道から25mほど引っ込んだ場所に石造八幡鳥居があり、その脇に「村社 浅間神社」の社号標。
その手前に設置された板碑を見ると、浅間神社の由緒書が刻まれていた。
可読性のある部分だけ紹介する。
祭神 木花咲耶姫命(※コノハナサクヤヒメ)
由緒
往古この地を萱口と称し、此処より海路を土呂(今の岡崎市福岡町)に通じ重要港として繁栄の地であった。孝徳天皇の皇女綾姫(地方民は姫宮と称していた。)は多数の従者を伴われ此の萱口に御上陸なされ永住され、白鳳十年(※670年)六月二十四日御歳五十二歳を以て亡くなり。この地に葬り奉る御陵墓を皇塚と称し、地名を姫之郷と改むに後世に至り難産続出し此の難に苦しむ者多く神夢のお告げにより産神木花咲耶姫命を甲斐国より勧請し安産の守護神として鎮斎す。妊婦は神饌撤下の御洗米を拝受すれば安産なりと言い今尚妊婦の方の守り神として親しまれて産土神として崇敬の念厚い。境内地たる御陵墓は前方後円墳にして後円墳の頂上地上十米の高台に社殿を建立林樹鬱蒼として繁茂り孤陽静寂荘厳極まりなく自らにして崇敬の念を生ずる神域である。
昭和二年十月二十二日内務省より神社境内地を史蹟名勝天然記念物として指定さる。 (※=山乃辺 注)
「産神」という用語は珍しいが、安産の神の意であり、木花咲耶姫命が安産と結びつけられたのは記紀にある火中出産神話による。
Wikipedia「天孫降臨 火中出産」の項に紹介されている『古事記』「木花之佐久夜毘売の出産」の内容は以下のようなものだ。
木花之佐久夜毘売は一夜を共にしただけで身篭った。それを聞いた邇邇藝命(※ニニギ)は「たった一夜で身篭る筈はない。それは国津神の子だろう」と言った。
木花之佐久夜毘売は、「この子が国津神の子なら、産む時に無事ではないでしょう。天津神の子なら、無事でしょう」と誓約をし、戸のない御殿を建ててその中に入り、産む時に御殿に火をつけた。天津神の子であったので、無事に三柱の子を産んだ。 (※=山乃辺 注)
ニニギの発言がネットに流れたら炎上必至だ。
それはともかく、東町 浅間神社の縁石内に細かな砂利を敷きつめた表参道は石鳥居のすぐ手前からはじまり、後円部の麓から立ちあがっている石段につづいていた。
上記写真の右手が前方部に当るが後円部の全高と比較して前方部の全高があまりにも低く、珍しいバランスの前方後円墳だ。
鳥居をくぐって石段の麓に至るが、ここに至っても後円部の全容は社叢に覆われていて確認できない。
長い石段の上には拝殿が立ち上がっていた。
石段を上がると、すぐ目の前に本瓦葺入母屋造平入で表の全面がアルミサッシ戸になっている拝殿が位置していた(図内❹)。
武漢風邪に対応して、手の触れる鈴緒は畳まれていた。
拝殿前で参拝して拝殿脇に祀られている境内社を見に行くと、社名不明の小社が祀られていたが、その背後には墳丘の縁が迫っており、土嚢の袋が露出していた。(図内❺)
上記写真左端の石垣は本殿の石垣だが、墳丘の縁ギリギリに設置されている。
後円部墳上からの眺望が開けているのはこの部分だけで、他は社叢に遮られている。
後円部上からは前方部のある東側に降りるための脇参道の石段が設けられており、無舗装の参道が後円部の尾根に延びていた。
前方部に向かう脇参道の途中(図内❻)から後円部を振り返って撮影したのが下記写真だ。
姫小川古墳の前方後円墳らしい部分が視認できるのはこの部分だけかもしれない。
脇参道は前方部の墳頂に至る手前で南側の墳丘麓(図内❼)に向かって降りていた。
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姫小川古墳は調査されているのに、なぜか前方部の標高のデータが現場にもネット上にも見当たりません。
現状の前方部は全長65mの前方後円墳としては異例に低く、原型のままなのか、削られているのか、非常に気になりますが、そのことに触れた情報がネット上には見当たりません。
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