御用地遺跡 土偶 59:アマツミカボシの杜
安城市小川町に祀られている荒神の正体を推測するために周辺にある神社仏閣を調べていて見つけた同じ小川町に祀られた天神社に地搗石(じづきいし)が存在することを知って、急遽、梅雨の雲間を縫って、天神社に向かうことにしました。
天神社が矢作川(やはぎがわ)沿いに存在し、荒神社の700mあまり上流に位置し、祭神は天照大御神であることは直前の日記で紹介しました。
この天神社にやってくる動機は以前、刈谷市の泉田町 八王子神社の境内社秋葉社の参道脇に置かれていた地搗石にペトログラフを見つけたことにあった。
天神社の地搗石にもペトログラフが刻まれている可能性があったからだ。
7月の上旬、自動車専用道路の国道23号線で矢作川の下流にある藤井インターチェンジで一般道に降り、矢作川の右岸の堤防上を遡った。
荒神社も天神社も堤防脇なので、社殿を見落とすことはないだろうと、高をくくって走っていたのだが、意外に対向車が多かったことと、堤防の淵に寄って走るのは危険であることから、堤防上からは死角に入っていて、両社とも気づかずに通り過ぎたばかりの場所で勘が働いて、天神社の杜を見つけた。
少し戻ると、下流側(南側)に立派な高札台を持つ、高札が立てられており、社号標や幟柱立ても見え、こちら側が社頭だった。
背の高い高札台は洪水対策だと思われる。
ちょうど、堤防下に降りていく道が設けられていたので、堤防から降って、社頭に出た。
ここからだと鳥居や拝殿らしき社殿も視認できる。
社号標には「村社 了神社」とあるが、Google マップでは「天神社」となっており、社号標の社名の読みや意味は情報が無く、不明。
鳥居は石造の伊勢鳥居だった。
奥には瓦葺の拝殿が見えている。
鳥居をくぐって、無舗装の表参道を進むと、瓦葺入母屋造平入の拝殿前にでた。
拝殿の正面は安城市には珍しく格子窓の付いた板戸が前面に立てられていた。
拝殿前の狛犬も背の高い基壇上に設置されている。
しかし、拝殿は特に高い場所に設置されていないので、洪水の心配が無くなって以降に設けられたものと判る。
拝殿前で参拝して、殿内を見ると、正面の壁に大きな板絵が掛かっていたが、1点は額のみ。
中央の絵は明治39年4月に奉納されたもので、「出征軍人記念南山大戦争之図」とキャプションが付いており、絵の内容は奉納された2年前の1904年にロシア軍の砦のあった遼東半島の南山を日本陸軍が総攻撃している図だ。
左隣の板絵も文字は退色して読み取れないが、日本陸軍が進軍している図。
おそらく同じ日露戦争の図で、同じ人物が描いた板絵だと思われる。
拝殿前から脇を迂回すると、1mほどの高さの石垣上に
瓦葺の神紋が設置されていた。
石垣上はコンクリートでたたかれていたが、奇妙なことに、その上に大粒の黒い砂利が敷き詰められていた。
神門の軒下には「天神社」の扁額が掛かっている。
神門脇から延びる回廊の外側に沿って脇に回ると連子窓になっており、瑞垣内を覗くと、本殿前のコンクリートでたたかれた床にも黒い砂利が敷き詰められている。
回廊に続く、瓦葺のコンクリート塀に沿って、さらに奥に進むと、本殿を収めた瓦葺切妻造平入の覆屋が設けられていた。
壁は簓子張り(ささらごばり)の板壁だ。
渡殿も覆屋に準じた建物で、この2棟に使用された瓦にだけ「北斗七星に剣」の神紋が入っていた。
この神紋を持つ神社に遭遇したのは2社目で、もう1社は小生の学区に祀られている名古屋市内の星宮社なのだが、その祭神はここ天神社の天照大御神とは真逆の神、天津甕星神(アマツミカボシ)なのだ。
この神紋を見たことで、ここ天神社の本来の神はアマツミカボシであることを確信した。
天照大御神を祀った神社を「天神社」とする例は、まず存在しない。
しかし悪神とされる天津甕星神であるなら、その神名から「天神社」とされるのは当然だ。
天津甕星神とはどんな神なのか。
『日本書紀』にのみ「唯星神香香背男(タダホシノカガセオ)」、「天香香背男(アマノカガセオ)」、「天津甕星」という名で登場する神であり、悪神とされたのはアマテラスにまつろわぬ神だったからだ。
アマツミカボシは大国主命を帰順させた、タケミカヅチとフツヌシでさえ服従させることができなかった神であり、唯一、倭文神(しとりがみ)タケハヅチだけが懐柔することのできた神とされている。
悪神とされていることから、隠されることがあり得る神なのだが、よりによって、アマテラスとすり替えるとは大胆な。
しかし、“帰順”の意味を込めてアマテラスに変更したのかもしれない。
神紋の「北斗七星の尻尾に剣」はヤマタノオロチのメタファーであり、となるとアマツミカボシはサルタヒコの別名とも考えられることになる。
さて、目的の地搗石は表参道の途中の北側に、参道の方に向けて2基の力石とともにコンクリートに埋められていた。
しかし、ここの地搗石にも、力石にもペトログラフを見つけることはできなかった。
地搗石には縄を通したと思われる穴が開けられているのみだった。
地搗石とは縄や板を通して、釣り上げ、埋め立てた場所に打ち下ろして固めたりするのに用いる石のことだ。
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小川町 天神社の祭神が地搗石には縄を通したと思われる穴が開けられているのみだった。
地搗石とは縄や板を通して、釣り上げ、埋め立てた場所に打ち下ろして固めたりするのに用いる石のことだ。
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小川町 天神社の祭神がアマツミカボシだったとするなら、荒神社との繋がりは無くなってしまうものの、矢作川右岸で祀られている他の荒神がどれもスサノオと解釈できることから、やはりスサノオとみていいかと思われます。