御用地遺跡 土偶 23:古墳上の産土神
安城市の比蘇山古墳(ひそやまこふん)を一般道から見上げ、墳丘上に上がるため、比蘇山古墳のある櫻井神社境内に入り、南の社頭から表参道を北に向かい、最後の鳥居(三ノ鳥居)をくぐる直前から表参道は広い石畳となりました。
石畳の表参道を進むと、すぐ左右に白地に朱で「櫻井神社」と染められた幟が立ち並ぶ一角に到り、気持ちがハレの場に来たことに切り替わった。
社叢も初めて松以外の常緑樹が参道右手に出現した。
行く手には中央に石段のある石垣の組まれた土段があるが、この土段が比蘇山古墳に相当する部分だと思われる。
石段を上がると、土段上は細かな砂利が敷き詰められている。
目の前には銅板葺入母屋造で中央には同じく銅板葺で唐破風屋根の向拝が設けられている。
向拝で参拝したが、ネット上にある『神社概要』に以下の祭神が紹介されていた。
祭神 合祀
合祀伊弉諾神(イザナギ) 火之迦具土神(ヒノカグツチ)
伊弉冊神(イザナミ) 火産霊(ホムスビ)
菊理媛神(ククリヒメ) 応神天皇
配祀 倭姫尊(ヤマトヒメ)
天照皇大神 菅原道眞
八幡大神
注:( )内は山乃辺による
この10柱の神々は社頭に建てられていた板碑『桜井神社』には一部の順序を変えて記載されていた。
その板碑の神のラインナップを見た時には、5社の神社が合祀されていると推測したのだが、実際に合祀されているのは4社であることが判った。
火産霊(『日本書紀』での名称)と火之迦具土神(『古事記』での名称)は同神の異名である。
江戸時代までは神社の神名は『古事記』の名称で表記されていたが、明治政府(神社本庁)は江戸幕府の価値観を抹消する目的もあって、『日本書紀』の名称の使用を推奨したものと思われる。
このため、徳川幕府直系の藩、つまり官軍と戦った会津藩などの神社は当然、『日本書紀』名称の使用に抵抗する。
ただ時代を経て、そうした意義を知らない神職が増えれば、文部科学大臣所轄の神社本庁の慣習に従う神社は増えていく。
三河は徳川家康のお膝元だが、メインの三柱、伊弉諾神・伊弉冊神・菊理媛神は『日本書紀』名称である。
菊理媛神は『古事記』には登場しない神だから、江戸時代以前でも『日本書紀』名称を使用していたのか。
いや、菊理媛神を祀った総本社の白山比咩神社(シラヤマヒメじんじゃ)では記紀名称ではなく、この神社特有の菊理媛神の別名「白山比咩大神」を使用している。
つまり現在の、ここ櫻井神社は総本社ではなく、神社本庁に従った名称を使用しているわけだ。
拝殿右手に見える牛像は菅原道眞の使いの牛だが、おそらく直前に訪問して来た二子古墳(ふたごこふん)上に祀られていた天神社がここに遷祀されたものと思われる。
Wikipediaの「櫻井神社」の項には末社として弁財天社が表記されていたので、その弁財天社も比蘇山古墳にやって来た目的だった。
拝殿西脇の回廊前に連棟社らしき社殿があり、他には末社らしきものが見当たらなかったので、当初はそこに他の末社とともに祀られているのだろうと判断した。
由緒に関しては以下のようにある。
桜井神社は、往古より桜井郷の産土神(※うぶすながみ)として尊崇篤く神威熾にして、国内神名帳に載せられし従五位桜井天神と称し奉り、武家の崇敬篤く鎌倉時代に於て三河守護吉良氏より三百貫の社地寄進が為されたと伝えられ、桜井城主松平親房は大永七年(1527)自ら願主となりて社殿の造営を行いました。当時は神明社と称されていましたが、慶長十五年(1610)家康の命により本殿の修築が行われ、社号も白山社と改称されついで十九年改めて五十石の社領の寄進が行われ、三河三白山社として、歴代徳川家の崇敬を受けてきました。寛永年間に社号も桜井権現と改称され後正一位桜井大権現と奉称されてきましたが、明治5年額田県令に依り郷社桜井神社と称し、由緒深き故を以て昭和7年県社に昇格され、古くより旧碧海、幡豆のニ郡に亘って氏子村も30有7ヶ村に及び、近郷の大社として崇敬誠に浅からぬものがありました。
大祭は元陰暦九月十六日とされていましたが明治より10月16日に改められ、近年11月3日に定められている。往昔徳川家康によって奉納されし流鏑馬の神事につゞき花馬、額、山車、打囃子、獅子舞、棒ノ手、角力、花火の奉納が盛大に行われ、わが故里の鎮守の神としてとこしえにいつきまつる。 ( ※は山乃辺による)
現在は「櫻井神社」となっているこの神社の神紋は以下のように「櫻」と「井桁」を組み合わせて丸内に収めたものだ。
拝殿の裏面には回廊があって、回り込めないようになっているようなので、この日は比蘇山古墳の探索は終了として、次の古墳に向かった。
3月の上旬、ネット上に末社の弁財天社が櫻井神社の境内外らしき場所に祀られている情報があったので、再度、比蘇山古墳に向かうことにした。
末社弁財天社は櫻井神社境内の西側にあるようなので、拝殿前には上がらず、土段の麓を西側に迂回したところ、整備されていない通路があって、比蘇山古墳の西側の麓に出た。
弁財天が比蘇山古墳の西側が観えることを教えてくれた形になった。
比蘇山古墳の西側は一般道の通っている東側とはまったく異なり、墳丘が削り取られ、櫻井神社の回廊が墳丘の麓から直接、見上げることができた。
上記写真の左端から先は通路が無く、下に降る土手になっていた。
その土手を中腹まで下って撮影したのが下記の写真だ。
写真の右手上に比蘇山古墳の墳丘がある。
土手の中腹を辿って奥に進むと櫻井神社本殿を取り囲む回廊の北西の角地の麓に出た。
ここから墳丘上を見上げると、墳丘にくびれがあり、写真左側が円墳状の丸い丘になっているのが確認できる。
ただ、比蘇山古墳資料にあるように、比蘇山古墳の全長が約40mとすると、
このくびれは比蘇山古墳の北の外側にあることになり、データと整合しない。
土手には赤紫の寒椿がこぼれている。
本殿回廊の角地に向かう土手は木の根が水平に走っており、階段のようになっていた。
この階段を登って行き、逆方向を見下ろして撮影した写真が下記だ。
本殿回廊の裏面から、円墳状の丸い丘に見えた部分を見下ろしたのが下記写真だが、この突き出しが比蘇山古墳の最北部ではないかと思われた。
櫻井神社回廊の東側に回って、拝殿前に向かうと、比蘇山古墳の東側は社叢に覆われており、眺望はほとんど無かった。
最後は拝殿脇で飛び降りる形になったが、拝殿前に戻ることができた。
櫻井神社の石段を降り、眺望が開けた場所から東側に広がる田園地帯を撮影したのが下記写真だ。
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ヘッダー写真は比蘇山古墳の東側にあるみかん畑に鈴なりになっていた、はるみみかんです。
はるみみかんは温州みかんの倍くらいの体積がある大型の品種で糖度が高く、鳥害が多いことから生産の難易度が高い品種だとのことです。
「はるみ」とは「春味」の意味で、冬の終わり頃から出回り、春を予見させる味をネーミングしたようです。
このみかんがあまり知られていないのは、生産の難易度が高いことのほかに、隔年で果実が豊作になることが多く、市場への毎年の安定供給が難しいことがあるようです。