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御用地遺跡 土偶 50:社口社の蛇神

移動目的で安城市の県道47号線を東に向かっていると、今年の一月上旬に参拝した西本郷町 和志取神社(わしとりじんじゃ)の社頭を通りかかりました。ここはすでに岡崎市に入っています。
この和志取神社の記事に使用するためのヘッダー写真に使用できそうな写真が見当たらなかったのが今回、安城市にやってきた目的の一つでした。

●後頭部結髪土偶

1MAP西本郷町 和志取神社

西本郷町 和志取神社の西側には水田が広がっていて、1月には水の無かった水田には水が張られ、一部には稲が植えられていた。

ところで、和志取神社は御用地遺跡の東100m以内の柿崎町にも存在していて、以下で紹介しました。

西本郷町 和志取神社は御用地遺跡の南南東1.8km以内に位置している。
和志取神社前の県道47号線には47号線を渡るための背の高い横断歩道橋が設けられていて、和志取神社の社頭を俯瞰して撮影することができた。

1西本郷町 和志取神社杜

神社の社叢を眺めるときは、いつもスケールの大きな盆栽を眺めるように観ている。
西本郷町 和志取神社には玉垣が設けられてなく、社頭部分だけ道路沿いに車除けのステンレスの杭が並べられ、他は社叢が道路との境界線となっている。

境内には砂利が敷き詰められており、社頭に鳥居は見当たらず、「式内社 和志取神社」と刻まれた社号標とそのすぐ奥に『由緒』の刻まれた板碑。
社頭から30m以内に対になった幟柱が建てられていた。

2西本郷町 和志取神社社頭

愛車を社頭前の路肩に駐めて、社叢の中に向かう表参道に入って行った。
参道を100m近く進むと、石造りの両部鳥居の前に到達した。

3西本郷町 和志取神社鳥居

両部鳥居は木造のものがほとんどで、石造は珍しい。
鳥居の70mほど奥に瓦葺の拝殿が見えており、表参道の両側には赤青の幟が林立している。
赤と青地の幟には「和志取神社」の文字が白抜きされていた。

4西本郷町 和志取神社幟

拝殿前に至ると、松の内だったので、かなり荒々しくて迫力のある門松が設置されていた。

5B西本郷町 和志取神社杜拝殿

拝殿は入母屋造平入で、前面全面に舞良戸が立てられている。
拝所には新年ということで、参拝者がいた。
当方も拝所に上がって参拝した。

拝殿の東側に回ってみると、本殿も瓦葺入母屋造で屋根の縁が直線ではなく、ウェーブが掛かった仕上がりになっており、観られることを意識した造りになっていた。

5本殿

そもそも、入母屋造の本殿なんて初めて遭遇した。
境内には複数の案内書が掲示されていたが、最も大きな板碑『和志取神社社記』の明治期までの記述には以下のようにあった。

             岡崎市西本郷町字御立鎮座
御祭神 五十狭城入彦皇子

五十狭城入彦皇子(※いさきいりひこのみこ)は気入彦命(※ケイリヒコ)とも申し景行天皇の皇子で勅命によりこの地方の逆臣大王主等を捕えこれより国内治まり庶民大いに安堵したという
御墓は当町和志山にあり前方後円墳で前後三十五間面積七百七十六坪周辺に六基の円墳即ち陪塚がある 明治二十九年十一月二十八日御陵墓伝説地と指定その後更に調査の結果昭和十六年四月十八日御陵墓と御勅定同年五月二十六日勅使御参向奉告祭が行われた
本神社は和名抄にいう鷲取郷の総社で延喜式国内百十五座の筆頭たる旧官社で文政十三年神祇伯より正一位の神階を受け正一位本郷大明神の扁額を下賜されたという 古来上下の尊崇篤く累代の領主より祭典費の献進があり祈年祭新嘗祭には幣帛を奉り宝祚無窮稔穀豊饒を祈る例であった

明治七年五月二十五日教部省令により本神社を延喜式内三河国二十六座之内和志取神社確定候事との指定を受けた

明治二十一年四月九日蓮華寺内で和志取神像が発見された 延喜年間の作と伝えられる木製の座像で本神社に鎮め祀ってある
                              (※=山乃辺 注)

この和志取神社の祭神が一般的な天日鷲命(アメノヒワシ)ではないことに驚いたが、現在の社名は5つ目の名称で、過去には以下の社名を遍歴している。

・蝉神社
・瀬部明神
・本郷大明神
・長谷部神社

上記『和志取神社社記』にあるように、和志取神像がここに納められたことから現在の社名になったのかもしれない。
しかし、「和志取神像」という名称は初めて知るもので、どこにも「和志取神」という名の神に関する情報は存在しないし、この和志取神社の祭神にもその名の神は祀られていない。
それでは、「和志取神像」とは天日鷲命の神像のことなのだろうか。
もしそうなら、この和志取神社の祭神として「天日鷲命」もラインナップされるはずなのだが、それも無い。
どうも、よく解らない。
実際に西本郷町 和志取神社の祭神とされているのは五十狭城入彦皇子のみなのだ。
ただ、五十狭城入彦皇子なる人物、『日本書紀』に第12代景行天皇と、後皇后である八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)との間に生まれた7男6女のうち、10番目に生まれた皇子であるという説明があり、皇統に連なる人物なのだが、事績に関する記載は存在せず、『古事記』には記載が一切存在しない。
『先代旧事本紀』では五十狭城入彦に関して『日本書紀』と重複する情報の他に、三河長谷部直(はせべのあたい)の祖で、墓が和志山(わしやま:字名)にあるとする記述があるという。
こう書いてみても、五十狭城入彦皇子はあまりにも情報の少ない神ではある。
この三河長谷部氏が西本郷町 和志取神社の4つ目の社名「長谷部神社」と関係があるようだ。

境内に祀られている末社をチェックしようと周囲を観て廻ると、本殿の裏面に御鍬社(みくわしゃ:アマテラス)と天王社(スサノオ)を合祀した末社。
その並びの東側に稲荷社が祀られていた。

拝殿前まで戻って来ると、東側に表参道の方を向けて、石を組んだ塚のようなものがあった。

6拝殿改築記念碑塚

石橋が組んであり、水路を暗示するような組み方がされており、使用された石はかなり古びている。
修験道の水行場のような雰囲気があるのだが、ここは平地で、湧き水のあった痕跡は見当たらなず、装飾的な石組だ。
石組みの中央最高部に設置された板碑には「拝殿改築記念碑」と浮き彫りされている。
通常の塚なら解るのだが、拝殿改築記念碑のための塚にしては洒落っ気が過ぎ、他のものが祀られていた塚を流用したものではないかと思わせるところがある。

境内末社に関しては『和志取神社社記』に4社が記されているが、現在は御鍬社に天王社が合祀され、以下の5社に増えている。

・神宮社 
・御鍬社&天王社 
・社口社 
・稲荷社

この5社の中で縄文期から祀られていた可能性のあるのが、社口社(しゃぐちしゃ)と稲荷社だ。
ここでは初めて遭遇した社口社を取り上げる。
社口社は鳥居内を南北に延びる表参道から直角に西に延びる脇参道の突き当たりに覆屋が設置されていた。

7拝殿改築記念碑塚社口社

覆屋の背後には水田が広がっている。
脇参道は縁石で囲われ、その入り口に「社口 社」と刻まれた小さな社号標が設置され、すぐ奥には石造の八幡鳥居が設けられていた。

鳥居をくぐって、瓦葺寄棟造平入で正面が拝殿と同じ横格子板戸が閉め立てられた覆屋の前で参拝した。

8拝殿改築記念碑塚社口社覆い屋

社口社に関して『和志取神社社記』には境内末社として社名が記されているのみで、祭神には触れていないし、社口社の総本社に関する情報も見当たらない。
ネットで検索すると、以下2社の社口社がヒットした。
もちろん、社宮司(しゃぐうじ)と同じ系統の神社であり、いずれも愛知県内だ。

・豊田市畝部西町 社口社 (祭神:猿田彦命)
・安城市和泉町 八剣社 境内社社口社
             (祭神:食堯速日命〈みずはやひのみこと〉)

同じ安城市で境内社として祀られていることからすると、和志取神社の社口社の祭神も食堯速日命である可能性が高いのかもしれない。
食堯速日命も初めて聞く名で、『安城生涯学習まちづくり企画人』のサイトでは和泉町 八剣社の境内社社口社に関して、以下の説明があった。

和泉村では一番古い神社です。マーメイドパレスの駐車場の辺りにありました。蛇の神、水の神様と崇められ、和泉村が雨乞いをすると必ず雨が降るといわれるほど御利益著しい神様であります。古老の伝言によると田畑や川に大蛇が出て村人を脅かすので神に祈ると、それ以後は現れず村人は安心して暮らしています。

和泉町 八剣社の東230m以内には南北に半場川が流れ、八剣社と半場川の間は水田地となっており、周囲が水田に囲まれている和志取神社とは蛇神を必要とする環境は似ている。
豊田市畝部西町 社口社の方も周囲の環境を調べてみると、安城市の二社よりも周囲は水田の豊かな環境だった。
『日本書紀』と『古事記』を読み比べると、猿田彦命の別名がヤマタノオロチであることが暗示されている。
共に八衢(ヤチマタ)の神であり、つまり猿田彦命もまた、蛇神であることが解るのだ。
戸に開けられている引き手の穴から屋内を見てみると、太くて荒々しい注連縄が軒下に掛けられ、御幣(ごへい)が扉の前に置かれた社が祀られていた。

9西本郷町 和志取神社杜社口社

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西本郷町 和志取神社の祭神、五十狭城入彦皇子の「五十」は五十猛神(イソタケル)を連想させ、「五十(イソ)」が何を意味する言葉なのか気になります。五十狭城入彦皇子と五十猛神の父親は景行天皇とスサノオであり、共に大物です。
「五十(イソ)」が「五十」よりもよく名称に使用される「百」の半分であることから「Jr.」を意味しているのかとも考えます。
ズバリ、「五十(いそ・い・いい・いわ)」という苗字が存在し、愛知・滋賀・三重の3県に多い苗字であるというデータも存在します。
上記三県に五十猛神は関係してないものの、五十狭城入彦皇子は大いに関係がありますので、その影響で「五十」という苗字の人口が上記三県に多い可能性が考えられます。

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