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今朝平遺跡 縄文のビーナス 91:Wの石室
愛知県豊田市猿投山(さなげやま)の御船石を観に行った2012年10月は、その日に同じ猿投地区にある2基の古墳にも寄りました。最初に訪れたのが豊田市加納町の藤山古墳群にある藤山一号噴でした。
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県道283号線で南西から猿投山に向かっていると、左手が加納町藤山の丘陵、右手が加納町西股の丘陵も間を283号線が切り通しして通っている場所があった。
さらに進み、右手の丘陵が切れて住宅になると、左手の土手の上に石造物や案内板があるのが目に留まったので、そこに寄っていくことにした。
下記写真は藤山の丘陵部を南東の西股側から撮影したもの。
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藤山の丘陵上を高木が覆っている。
藤山の丘陵に近づき、東隣の西大坪から丘陵上を撮影したのが下記写真 。
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表道路の県道283号線と並行した藤山の丘陵上に向かう通路を登っていくと、石室の開いた円墳があった。
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墳丘には落ち葉が重なり、やせた潅木が生えている。
墳頂周囲に石祠が見え、墳墓の全体を高木が覆っている。
石室は南向きで、前室の袖石が露出している状況だ。
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石室開口部は立ったまま出入りでき、室内の天井は高い。
上り通路の入り口に掲示されていた猿投地域会議の製作した案内板『藤山一号墳』には以下のようにあった。
藤山古墳群四基の中で最も大きな円墳です。籠川右岸の標高約99.8メートルの丘陵の先端に築造されています。古墳の年代は六世紀後半と推定されます。昭和四十七年の測量調査によると、石室の長さ7.6メートル、天井高2.7メートルで、勾玉、碧玉(へきぎょく)、水晶などの玉類と金環・銀環(ぎんかん)や鉄製の刀類、須恵器類が発見されました。この古墳は加納町一帯の有力な豪族を葬った墓と思われます。
前室に入ると立派な袖石の奥に天井の高い玄室が広がっていた。
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南向きで開口部の近い石室の床には十分な外光が当たっている。
その床には壁から剥落した石が落ちている以外、何も存在していない。
墳墓の大きさに比して石室が大きい。
玄室に入ると、奥壁には立派な1枚岩。
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玄室の天井は3枚の天井石で構成されていた。
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玄室内から入り口を振り返ると、落ち葉の吹き込んでいる前室の床はかなり玄室に向かって傾斜していることが分かる。
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この藤山一号噴、石室の左手(西)にはもう一つの石室が設けられていた。
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藤山一号噴本来の羨道(せんどう:外部から石室に通じる通路)の側壁の石などが流用されているのではないかと思われる石が墳墓に寄生するように積まれて石室が設けられていた。
その石室の門のように向拝屋根と柱が最低限の3枚の岡崎御影石で設置されている。
役行者像のセオリー通り、高い場所から衆勢(下界)を見下ろしている形になっていた。
こういう形の椅像はヒンドゥーの聖者の奉り方と共通している。
石室内には帽子を被り、マントを羽織った石像が奉られていた。
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マントは役行者像としては珍しい形で、セオリーでは蔓(かずら)で編んだ肩掛けだ。
右手の錫杖が失われている以外は、ほぼ完全な役行者石像だ。
墳頂部には3棟の石祠が置かれていた。
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3棟の石祠のうち2棟は失われた部位のある不完全な石祠だった。
これらの石祠に関する情報は見当たらない。
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猿投山に祀られた大碓皇子の御墓所より200年ほど旧く築造されたことになる藤山一号噴は猿投町 猿投神社一之鳥居の西北西660m以内に位置していますが、修験道を開いた役行者と猿投神社境内にある修験者が滝行を行う滝行場は関係のあるものです。