牛乗山第三紀末波蝕巨礫群 (上):修行している白蛇
直前の記事、愛知県岡崎市の関山神社奥宮は牛乗山(うしのりやま)の尾根の西部に存在しますが、牛乗山周辺は地殻変動で海底が盛り上がったもので、牛乗山の東部には第三紀の巨礫(きょれき)や砂礫が波打つ地表に露出している牛乗山第三紀末波蝕巨礫群(うしのりやまだいさんきまつはしょくきょれきぐん/以下「牛乗山巨礫群」と略す)を観ることができるということなので、そこに向かうことにしました。地図を見ると、牛乗山巨礫群に至る道は記されていません。牛乗山巨礫群にもっとも近い道は牛乗山に存在する一畑山薬師寺(いちはたさんやくしじ)の敷地なので、まずは国道1号線から一畑山薬師寺に向かいました。
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国道1号線の岡崎市藤川町東川向交差点北東側に大きな藤色の「臨済宗妙心寺派 一畑山薬師寺」の寺号標識が建てられていた。
岡崎市の中心街からやって来ると、藤川町東川向交差点で左折して40m以内に鉄のゲートが設けてあり、どうやら、そこから先は一畑山薬師寺の敷地内になっているようだった。
午前中なのに複数台の乗用車が一畑山薬師寺に向かっている。
ゲートを通り抜けると道はすぐに登り始め、進むに従って傾斜は増してくる。
370mあまり走ると、白と小豆色のコンビで2層屋根を持つ山門を通過した。
2階の軒下に掲示された扁額には「一畑山」の山号が記されていた。
「牛乗山(ぎゅうじょうざん)」はおそらく、一畑山薬師寺の前に奉られていた密教寺院の山号ではないかと推測した。
山門を通過すると、道はさらに急になり、ヘアピンカーブが連続しているのだが、驚いたことに複数の高齢者が徒歩で坂道を登っていた。
この日は5月下旬だったが特別気温が高くなった日で、高齢者には危険な日差しの強さだった。
山門から560mあまり登ると、50段くらいある幅の広い石段の麓に「一畑山薬師寺」と刻まれた大きな石柱寺号標が建てられている前を通過した。
最後のヘアピンを曲がると、その石段の上に出たが、最初の石段の先にはさらに10段ほどの石段があり、その奥60m以内に、さらに15段ほどの石段を持つ瓦葺入母屋造平入の本堂が立ち上がっていた。
今、写真で見ると、実際に現場で感じたほどスケールを感じないのだが、実際には大きな寺院であると感じた。
午前中なのに、団体を含め、参拝者は多かった。
本堂は唐破風の向拝屋根を持っており、色は山門と統一されている。
本堂の中央には「文殊菩薩の智慧の輪」と書かれた柴でゲート状に模った輪が設けられていた。
茅の輪をアレンジしたようなものだが、初めて遭遇するものだ。
輪の奥は巨大な賽銭箱だが、ここで参拝する人は少なく、参拝者のほとんどが、ガラス窓の奥の本堂内に入り、並べられた多くの椅子に腰掛けていた。
本堂前の石段の上からほぼ真南を眺望したのが以下の写真だ。
正面奥の山並みと、ここ牛乗山の間を左右に国道1号線は通っている。
牛乗山巨礫群はここから見ると、左手奥の方向だが、そちら側には愛車を駐めた広い駐車場があるので、駐車場に戻った。
駐車場の南東の角地に向かうと、なんとそこの生垣の中に教育委員会の製作した以下の『岡崎市指定文化財』の案内板が掲示されていた。
《天然記念物 牛乗山第三紀末波蝕巨礫群》
牛乗山の基盤は、領家変成岩類に属する石英片岩及び雲母片岩よりなり、その侵食面上に第三紀の巨礫や砂礫からなる地層が不整合に重なっている。
基盤の領家変成岩類は、一億五千万年以上も古い時代に海底に堆積した地層が中生代白亜紀に変成作用を受けて生成したものである。 岡崎地方に多く見られる花崗岩はその中に定置している。
この地層は中新世前期の一千五百万年以上も古いものと考えられる。また、不整合面は当時の浅い水底で、この上に巨礫や砂礫が乗って波の作用で表面が滑らかに磨かれたものと推定される。 三河地方における悠久の時の流れを示す、地質学上貴重なものである。
昭和四十六年九月二十五日指定
上記文中の領家変成岩類とは中央構造線(下記赤線)の内帯(大陸側)に接する変成岩類のことだ。
中央構造線は愛知県では東の豊橋市から渥美半島を通って紀伊半島伊勢神宮の北側を抜けて紀ノ川に向かっている。
上記案内板脇には通行止めバリケードが並べられていたが、愛車が2輪である機能を利用すれば、その隙間を通り抜けられた。
目的地はバリケードの先らしいので、愛車でさらに広い通路を南東に向かうと通路脇に蛇ケ谷龍神社の石祠が祀られていた。
石祠の左右の柱には蛇が巻き付いている。
この石祠の脇の案内パネル『蛇ケ谷龍神社』によれば、一畑山薬師寺岡崎本堂が創建されたのは、この地にいた白蛇(=蛇ケ谷龍神)が薬師如来の夢に現れたのが起源になっているということだ。
昭和34年一畑薬師瑠璃光如来様の夢枕に白蛇様があらわれ、「名古屋から東南方向に霊山がある、 一畑薬師瑠璃光如来様はたいへん位の高いありがたい仏様なので、ここにおまつりするように」と言われました。 これが当山、岡崎本堂の起源です。
古くから、この土地で御修行されている蛇様でございます。
上記案内パネルの足元には龍神の石造神像が置かれ、その足元に河原石が2コ置かれていた。
大らかな表情の龍神像だが、どことなく身体の線が蛇神を思わせる石像だ。
牛乗山には山綱川に流れ入んでいる名称不明の水路(上記地図に表記)があり、おそらく蛇ケ谷龍神と関係のある水路だと思われる。
蛇ケ谷龍神社の先は舗装が無くなり、瓦礫の無舗装路になり、東に向かっていた。
その通路を途中まで進んだのだが、日差しがあまりにも強く、目的の牛乗山巨礫群がどれくらい先にあるのか不明なので、一旦駐車場の愛車まで戻って、愛車でふたたび引き返し、先に進むことにした。
未舗装の部分は途中から広い更地になり、南に向かって延びていた。
更地は周囲を低いブロック塀で囲われていた。
後で判ったことだが、この更地も牛乗山を削ったものだ。
この更地は南側に立ち上がっている深い森で終わっていた。
愛車を森の木陰に突っ込んで、トレーナーを着用して来たのだが、とにかく暑いので、半袖Tシャツに着替え、森に入ることにした。
上記写真の右寄りに上り坂の通路があるので、そこを登っていくことにした。
その通路に入ると使用されている通路のようで、はっきりした路面が森の中を抜けていた。
その通路に足を踏み入れると、最初から路面に苔の生した堆積岩が露出していたが、牛乗山第三紀末波蝕巨礫群案内書に従えば巨礫に当たるものだ。
この巨礫を見ると、更地部分を造ったのは、おそらく大変な作業だったと思われる。
この巨礫は以下の記事の関山神社奥宮に登る途中に露出していた大きな堆積岩と近いものだ。
(この項続く)
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一畑山薬師寺には、ここで紹介した本堂以外にも観るべきものが存在しましたが、目的は牛乗山巨礫群の方なので省略しました。
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