今朝平遺跡 縄文のビーナス 31:後醍醐天皇と明治天皇を結ぶ武人
実際には愛知県近岡町の神明社から巴川右岸(北岸)に沿って北東に向かう国道153号線と国道420号線を兼ねる道を辿って770mあまり上流に向かい、足助大橋西(あすけおおはしにし)交差点を右折して足助大橋で巴川を左岸(南岸)に渡ると三叉路があります。その三叉路の分岐の右手にある足助町の石清水八幡神社(いわしみずはちまんじんじゃ)に向かいました。レイライン上では神明社と石清水八幡神社の間に1つ前の記事で紹介した岩上町の若一神社(にゃくいちじんじゃ)が存在します。石清水八幡神社は行き帰りとも、車を運転している人間にとっては死角に当たる場所に位置するため、レイラインをたどって地図をチェックするまで、私はその存在に気づいていなかった神社でした。そして、その分岐点に縄文のビーナスの石像モニュメントが設置されていました。ただ、この像は実物の縄文のビーナス像にまったく似ていないので、とても紹介したいとは思えない代物です。いったいどうすれば、こんなにも似て非なる像が出来上がるのか謎です。足助町の恥とも思われる、この像を足助町は即刻撤去すべきだと、提案したいと思います。
縄文のビーナス像モニュメントの設置されている三叉路脇の歩道は広くなっているので、そこに愛車を駐めて、乙川沿いの分岐路を下流に向かうとすぐ、歩道が通常の幅に戻り、左手が1mほどの高さの布積の石垣上に玉垣を連ねた社地になっていた。
石垣内には「足助八幡宮」のタテ看板が設置されているので、足助八幡宮の境内外社のようだ。
社頭は三叉路からもっとも遠い南西側の玉垣の外側の雑草の生えた草原の先にあって、「石水八幡神社」と刻まれた社号標が建てられていた。
小さな草原にはアスファルト舗装された歩道脇に肉色の波トタンを張った切妻屋根が被された石造の井桁があった。
井戸だ。
石清水八幡神社の総本社である京都府八幡市の石清水八幡宮は旧称を男山八幡宮と言ったが、「男山(おとこやま)」とは男山八幡宮が鎮座した山の名称で、男山から湧き出ていた石清水が新たな社名となったもので、足助八幡宮の井戸を清水になぞらえて石清水八幡宮をここに勧請したものだと思われる。
それを示すように玉垣内に祀られている石清水八幡宮の社は真っ直ぐ井戸を向いている。
その社を社叢が取り囲んでおり、境内は暗い。
井戸を迂回して土壇上に上がる石段下から玉垣内を見ると、境内はやはり草原になっており、社に向かって幅50cmくらいのコンクリートでたたかれた表参道が延びている。
社の背後は屋根の葺かれた白壁になっている。
石段を上がると、石清水八幡神社の左の杉の間に石祠が祀られていることに気づいた。
石清水八幡神社前までやって来ると、普通に亀甲積の石垣を組んだ基壇上に社が設置されているものと思っていたが、基壇は奥行きのあるもので、土を入れた中央に形式的なコンクリートでたたいた参道と踏み石、拝石を配置した奥に杮葺葺(こけらぶき)流造の社が設置されていることが判った。
社の正面は格子窓になっている。
背後の白壁の屋根は瓦葺だ。
石清水八幡神社左の石祠は切妻造平入で、正面の扉は省略され、扉の形に凹刻されたものだった。
杉やドウダンツツジに囲まれ、基壇前に拝石、背後にやはり切妻造の屋根を葺いた物入れのようなものが不付いしている。
社名は情報がなく、石祠の正面に回ると土台の石は方形ではないことが判った。
屋根や基壇と土壇には苔と地衣類が生し、土壇にはシシランが繁殖を始めている。
年中、乾燥することの少ない環境のようだ。
この後、石清水八幡神社の東北東110m以内に位置する本社の足助八幡宮に向かったが、足助八幡宮に関してはすでに今朝平遺跡(けさだいらいせき)関連で以下の記事「今朝平遺跡 縄文のビーナス 15:縄文の巴紋」にしている。
愛車は足助八幡宮の東隣にある足助神社のさらに東隣りに豊田市役所足助支所の駐車場があるので、そこに愛車を入れ、この2社と足助支所は通路でつながっているので、足助神社を通り抜けて足助八幡宮に参拝し、再び足助神社に戻る形になった。
足助八幡宮と足助神社は社地に境は無いが、社頭は別々になっており、足助神社は足助八幡宮とは異なり、社頭前に奥行き30mほどの砂利を敷き詰めた広場がある。
その広場の奥、中央に石造神明鳥居が設置され、鳥居の外側に対なった大きな狛犬が向かい合っている。
石鳥居の正面奥に拝殿があるが、社殿を高木の社叢が取り巻いていた。
石鳥居の前まで行くと、鳥居の先にはコンクリートでたたかれた左にカーブする表参道が奥の拝殿に向かっていた。
参道以外の境内には一面に砂利が敷き詰められている。
高さ50cmほどの石垣を組んだ基壇上に設けられた拝殿は銅板葺切妻造平入で千鳥破風の向拝屋根が付いており、白壁に本体は腰までは板壁、窓は連子窓となっており、向拝部は4枚の格子ガラス戸が閉め立てられている。
拝所前に上がって参拝したが、主祭神は足助重範(あすけ しげのり)となっており、拝殿脇に建てられた教育委員会制作の立て札『足助神社』には以下のようにあった。
明治天皇が南朝初代天皇(=日本第96代天皇)に味方した足助重範(しげのり)を祀るため、重範没後約500年後になって特に贈位したことは、明治天皇の素性を推測させるものだ。
足助八幡宮の東南東480m以内の山頂に奥宮は祀られているが、その山頂の南西100m以内に飯盛山城は存在した。
拝殿の脇に回ると、銅板葺屋根を持つ回廊が裏面に延びていたが、その屋根越しに見える銅板葺流造の本殿の屋根には3本の鰹木と外削ぎの千木が乗っており、武人足助重範を表していた。
本殿を囲っている板塀が素木ではなく、防腐目的だと思われる紅海老茶に染められており、本殿の木部も素木ではなく、紅海老茶に染められているのが気になった。
足助重範の子孫が現在もこの地に存在しているわけでもなく、南朝系の天皇も過去の人となっているので、社殿を維持するためにも防腐塗装が必要だったのだと推測された。
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愛知県豊田市と長野県飯田市を結ぶ国道153号線という幹線道路から足助町に入る入り口とも言えるのが足助大橋ですが、足助町の一ノ宮のような役割の神社が足助八幡宮です。なので、足助町にやって来た時にはいつも、足助八幡宮前の車道に設けられているゼブラゾーンに愛車を駐めて足助八幡宮に挨拶をするのが習慣になっていたのですが、今朝平遺跡 縄文のビーナスがきっかけで、足助神社の隣が足助支所の駐車場であることに気づいたことから、以後はゼブラゾーンではなく、そっちを利用しています。