御用地遺跡 土偶 52:荒神と秋葉権現
岡崎市の和志山古墳脇にある芙蓉山 蓮華寺(ふようざん れんげじ)から最初の目的地だった西本郷町の荒神神社に向かいました。
安城市新田町 市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)から岡崎市西本郷町 和志取神社に至る4社の神社に遭遇することになったきっかけは地図上で西本郷町 荒神神社を探していて、安城市新田町の「弁天前」という字名を見つけてしまったことがきっかけになりましたが、4社のうちの3社は矢作川の西岸域に存在する神社の中でも重要な神社でした。
西本郷町 荒神神社は和志取神社の東160mあまりに位置しており、南北に延びる県道26号線から西に延びる路地に社頭が面していた。
社地は鰻の寝床のように南北に細長く、両側の民家に挟まれ、社頭の路地に面して「荒神神社」と刻まれた文字内に白いペイントを施した社号標が立てられている。
社地内は地面が平地に整備されているのみで、路地から奥に向かって、左隣の住宅に沿って敷石などの無い30mあまりの表参道が奥に延びている。
その参道の右手に沿って、社号標の奥には団子状に剪定された低木や灌木が点在し、その奥には枝葉の落とされたイチョウ(1月初旬のことだった)や常緑樹が並んでいる。
愛車を社頭の路地の向かい側に駐めて、表参道を30m近く進むと、表参道は鍵形に右手(東側)にズレる形で、石造八幡鳥居が設置されていた。
鳥居の正面奥には濃色に染められた社殿が見えている。
石鳥居には「荒神神社」と浮き彫りされた社頭額が掛かっており、鳥居の先の社叢は松などの常緑樹だけになっている。
鳥居をくぐると瓦葺切妻造平入の覆屋が設置されていた。
正面はガラス格子窓を持つ板戸が締め切られている。
この荒神に関しては社内にもネット上にも住所と写真以外の情報は一切存在しなかった。
だが、ここの“荒神”も、これまでの矢作川(やはぎがわ)西岸での経緯からして、スサノオである可能性が高いのだが、地元の人たちにとっては、あくまでも“荒神”なのだ。
一般に「荒神」というと、台所の神として民家の台所に祀られる例が多いのだが、ここ西本郷町 荒神神社のように、おそらく集落の神として祀られている場合は生活全般を守護する神として祀られているようだ。
一方、民家の台所に荒神が祀られるのは、日本の台所に竃(かまど)が設置されていたことによる。
竃は日本人の主食である米(ひえやあわも)を食べられる形にして提供してくれる台所のシンボルとなるツールであり、竃に対して御札や、神棚や、幣束の形で荒神が祀られてきた。
そして、荒神は食品を扱う台所を火によって浄化、ひいては家人の災難を除去してくれる神でもあった。
ただし、秋葉神社の総本社である秋葉山本宮秋葉神社が静岡県浜松市に存在する東海道筋では事情が異なる。
この地区の竃には荒神ではなく、火伏せ(防火)の神である秋葉三尺坊(修験者が神格化された存在、あるいは天狗)が祀られてきたのだ。
江戸時代中期には三尺坊大権現を祀ることが大流行となり、東海道筋を経由して江戸市内にブームが及ぶ寸前で幕府によって禁圧された経緯があったのだ。
下記記事で実在の人物である三尺坊を紹介しています。
三尺坊大権現は明治初期の廃仏毀釈で姿を消し、現在は「正一位秋葉神社」のお札が祠に納められたり、台所に祀られている。
以下のお札は我が家のもので、社名の他に墨で「火災鎮護」、朱印で「祀霊 秋葉神社」と入っている。
表参道を引き返す途中、表参道から社殿方向を振り返って撮影したのが下記写真だ、
◼️◼️◼️◼️
この荒神神社に再度、やって来たのはヘッダー写真を撮影するのが目的でした。
上記のヘッダー写真は西本郷町 荒神神社の万十軒瓦(まんじゅうのきがわら)の剣垂れ側の波模様と巴に入れられた菊花紋を撮影したものです。