見出し画像

麻生田町大橋遺跡 土偶A 5:日本最小の前方後円墳?

豊川市の北には三河一宮砥鹿神社(とがじんじゃ)の神体山ともいうべき本宮山がそびえている。その本宮山の麓に位置する炭焼古墳群に向かいました。

●麻生田大橋遺跡土偶A

1MAP炭焼古墳群(4号墳)

上記の地形図で解るように、豊川市は豊川の流れによって広がった扇状地に存在している。
麻生田大橋遺跡(あそうだおおばしいせき)は、そんな豊川市市街の外れに位置している遺跡だが、炭焼古墳群は平野部より少し丘陵上に上がった場所に位置している。

40基以上が存在するという炭焼古墳群の中で唯一の前方後円墳が4号墳であり、発掘調査されたままの状態で保存されているというので、その4号墳に向かった。
4号墳は農業用ガラス・ハウスやビニール・ハウスが立ち並ぶ中に存在した。
両側に多くの農業用ハウスが立ち並ぶ中を通っている一直線の道を進むと、農業用ハウスの奥にある4号墳に入っていける通路が設けられていた。
その通路の入口脇、こんなところに駐めておいていいのかなという場所に愛車を駐めて、ガラス・ハウスの間の路地に入って行った。
50m近く進むと、左手にコンクリート柵で囲われた方形の空き地があって、それが7号墳の存在する空き地で、その通路に沿った角地が柵の開口部になっていた。
その入口脇に教育委員会の製作した、柵の外に向けたステンレス板の案内書『炭焼古墳群(四号墳)』が立てられていた。
上記の文とダブルので、それ以外を記すると以下のような内容だった。

愛知県指定史跡
昭和29年3月12日指定

後円部にある埋葬施設は、横穴式石室とよばれ、天井部を失っていますが、墳丘に規則的に配置された石材とともに、よく旧状を残しています。出土遺物や石室の形状から、築造は6世紀の後半と思われ、群の中では比較的早く築かれた古墳ということができます。

柵の開口部から、空き地の中に1歩入ると、目の前に前方後円形に石が並べられていた。

1炭焼古墳群(4号墳)

ち、小さい!!
こんな小さな前方後円墳は始めて遭遇する。
実際に観てはいないのだが、徳島県に存在する最古の前方後円墳がかなり小さかった記憶がある。
どっちが小さいか、調べてみる必要がある。
前方後円形に並べられた石の内側にも同じくらいの大きさの石が転がっている。
もしかして墳丘上はこんな石で埋まっていたのだろうか。
前方部はなだらかに盛り上がった丘の上に位置し、後円部は丘の麓に位置している。
上記写真の左奥にはごつい板碑が建てられている。
この前方後円墳を囲うコンクリート柵の高さが1.5m以上あるので、4号墳を少しでも俯瞰で見たくて、前方部の柵に登って撮影したのが以下の写真だ。

2炭焼古墳群(4号墳)

4号墳の右奥には石を組んで、石祠が祀られているのが見える。
前方部に入って後円部を撮影したのが下記写真。

3炭焼古墳群(4号墳)前方部

前方後円部の墳丘を避けるように雑草が生い茂っている。
この4号墳が、もし自宅の近所にあるなら、お茶でも持って息抜きに来たくなるような、すごく癒される空間だ。

板碑を見に行くと、「炭焼古墳群」と刻まれていた。

4炭焼古墳群石碑

前方後円形の外側を回って、後円部に向かうと、露出した石室があった。

5炭焼古墳群(4号墳)石室

玄室部分(上記写真手前)の幅は1.5mほどしかなく、羨道部分(せんどうぶぶん/上記写真玄室部分の奥の細くなっている窪み)は一人がやっと通れるくらいの幅しかない。
玄室部分には灌木が、羨道部分には雑草が茂って埋まっている。

6炭焼古墳群(4号墳)石室

しかし、妙なことに気づいた。
この石室部分は後円部の外側にあるのだ。
???
前方部から眺めていた時は、この石室の側壁の石が後円部を示す石に見えていたのだが、後円部のこちら側から見ると、後円部の上側は石で囲われていなかった。
前方部から見ると後円部の上側は丘の死角になっていて囲われていないことに気づかなかったのだ。
計画外で、すごい視覚のトリックが成立していた。
ここからは前方部に並べられた石はまったく見えない。
前方後円形に並べられた石はインチキで、誤解を生むものだった。
なぜ、こんなことをしているのか、この記事を書くために調べていて、判明した。
そのこととは別に、上記写真には石室の奥壁の石の外側に三州瓦の小祠が置かれていた。

インチキ前方後円墳プレゼンテーションの暴露は後回しにして、この遺跡をまずは観てみよう。
石室を入り口の羨道側から見たのが以下の写真だ。

7炭焼古墳群(4号墳)石室

羨道は玄室と真っ直ぐは繋がってなく、すこし左に逸れている。
おそらく、死者が真っ直ぐ出てくるのを忌避しようとしているのだと思われる。
神社の拝殿と鳥居の角度が意図的にズラしてあったりするのと同じ意味だと思われる。
しかも、羨道が逸れているのに合わせて、側壁の石も逸れている方向に少し広げてある。
この空き地一帯に咲いているのはアザミの綿帽子だった。
ここを訪れたのは6月の中旬で、アザミの花はすべて綿帽子になっていた。

石室の側壁の石組みを覗き観てみると、江戸時代の石組みに近いくらいの緻密な仕上がりになっていた。

8炭焼古墳群(4号墳)石室内

ちなみに石組みの質のピークは江戸時代で、現代に向かって、質は落ちている。
それは技術が落ちたのではなく江戸時代以降、職人が減少し、良質な石も使い果たされ、製造コストが上がったことによる。
現代では石垣に代わり、コンクリート製のパネルを誰が組んでも同じ仕上がりになるような時代になっている。

石室の壁に使用される石でもっとも大きな石が玄室の奥壁に使用される石だが、表面は黒っぽく煤けているものの、中身は白っぽい石のようだ。

9奥壁


側壁の石を上から見下ろすと以下のような状況で、表面の多くが地衣類に覆われ、風雨で劣化して一部が欠け落ちたりしている。

10側壁

この上に天井石が乗っていたのだろうが、大きさからすると、「炭焼古墳群」と刻まれた板碑と、その基壇に使用されている石はおそらく天井石ではないかと思われる。

さて、4号墳の謎だが、Wikipediaに以下の4号墳のサイズに関するデータが紹介されていた。

墳長 16メートル34.5メートル
前方部幅 6.6メートル(17メートル)
前方部高 0.6メートル(同じ)
後円部径 9メートル(27メートル)
後円部高 1.4メートル(同じ)

上記の2種類の数値は前に書いてあるのがインチキ前方後円墳のサイズで、カッコ内が実際の前方後円墳のサイズだと思われます。
Wikipediaでは解明されていないのだが、「墳長 16メートル」というのはGoogleマップの航空写真を計測してみると、石が並べられたインチキ前方後円形のサイズであり、石室に「墳長 34.5メートル」の前方後円墳の後円部を合わせると以下のようになった。

1図版4号墳

前方部の半分は柵の外側にあり、そこには現在、ビニール・ハウスが建っている。
前方部はここの地主と、愛知県が折り合いをつけたのだろうが、「愛知県指定史跡」の看板を出してるのに、観にくる人たちを騙しちゃマズいよね。
現在の県知事は日本文化を破壊したい人なので、こうなってるんでしょうか。

石室脇に生えている綿帽子も散り始めていて、そろそろ終わりの季節になっている。

11アザミ


後円部の右肩方向の柵の上からできるだけ柵内全域を撮影したのが下記写真。

12墳墓全景

ビニール・ハウスが並んでいる😊

◼️◼️◼️◼️
自宅から遺跡が出れば申告して、そこに家でも建てようとしていても、調査が終わるまで工事は中止を余儀なくされる。東京で言えば成城がそんな場所で、石原裕次郎が成城の自宅をいじるたびに古代の遺物が出土して、たびたびニュースになっていた記憶がある。古代人も現代人も高級住宅地は一致しているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?