中条遺跡 土偶A 15:築地
このページでは刈谷市築地町(ついじちょう)に存在する縄文遺跡である築地貝塚を紹介します。
恩田川を離れ、八ッ塚貝塚の東北東960mあまりに位置する築地貝塚に向かうことにした。
現地に行ってみると、住所の築地町は、かなりの広範囲だったが、『刈谷市 歴史の小径(こみち)』のサイトに載せてあったアバウトな地図に
http://www.city.kariya.lg.jp/kankobunka/rekishibunka/bunkazai_iseki/bunkazaipanfuretto.files/newtsuijihitotsugionda.pdf
もう少しピンポイントな表示がされていた。
案内文にはこう書かれていた。
築地貝塚は、築地川右岸の台地にあり、半島状の碧海台地上に形成された貝塚である。縄文時代後期(※約4,500〜3,300年)の貝塚で、竪穴住居跡や縄文土器、石鏃(せきぞく)などの石器とともに、人骨や獣骨、貝など数多く出土した。
※=山乃辺 注
「築地」という地名は各地に存在するが、中でも全国区になっているのは築地市場が存在したことで、海外にまで知られる東京の築地(つきじ)だ。
江戸時代の築地を地図で見てみると、埋立地であることが解るが、現在はさらに埋め立てが進み、築地は隅田川河口のすぐ奥の西岸に位置している。
「築」の漢字を部位に分解すれば「築地」が「埋立地」を意味する名称であることが解る。
竹=筒形(水に強い竹は輪切りにして並べ、護岸に用いられた)
エ=両手で物を支える象形
凡=元は人を示す象形だった
木=木製の道具を意味する
部位の意味を統合すれば、人足が木製の道具(タコ)で土を築き固めて護岸された埋立地を造成したことが読めてくる。
ショッキングなのは、江戸築地の場合は人類有史上の三大大火(他はローマとロンドン)の一つとされる明暦の大火が関係しており、この火事で生じた瓦礫が築地の埋め立てに使用されていることだ。
ついでだが、この大火の被害は死者3〜10万人、江戸の6割が焼け、江戸城の天守閣はこの時に燃え落ちたまま現在に至っている。
それはさておき、江戸築地が埋立地である以上、海浜地域に存在しているのは必然である。
下記写真は築地貝塚出土地を南東方向から撮影したもので、写真右端の幹線道路に面して生垣のある部分がこのブロックに唯一残っている畑地だ。
他は商業施設が写真の道路に面した部分に1ヶ所あるのみで、あとは住宅で埋まっている。
写真のように刈谷市内は高速道路以外は交通渋滞とは無縁の場所であり、幹線道路でも車が1台も写り込まない写真を撮影するのは容易であり、モーターサイクル天国の土地柄。
この幹線道路と並行して40mあまり南側に並行して東西に流れている築地川が存在する。
下記写真は築地貝塚の南で築地川に架かっている橋上から築地川を下流方向に向かって撮影したものだが、この部分で川幅は7mあまり、橋から川床まで3.5mほど。
これくらいの規模の川だと、縄文時代から存在した川でない可能性も十分ある。
現在の河川よりも縄文期の海進4mの時代の海岸線をチェックしてみると、以下の海進MAPのように衣浦湾(きぬうらわん)の海岸線が築地貝塚の西北西260m以内に迫っていた事が分かる。
そして、現在の築地川はかつての海岸線で二手に分かれ、北東に向かう水路はかつての海岸線の名残であるように見える。
衣浦湾の現在の姿である逢妻川(あいづまがわ)に架かっている逢妻橋上から下流側を見てみると、一部、川床の砂地が露出してしまっていた。
向こう側に見える橋は逢妻川橋。
逢妻橋と紛らわしい名称だ。
逢妻川橋のすぐ向こう側で左手から築地川が合流している。
この築地貝塚から出土したものを展示している刈谷市郷土博物館で、唯一目についたものは縄文時代後期の土器だった。
最低限の紋の入った縄文土器だ。
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江戸湾の奥に位置する江戸築地と同じように、刈谷築地は衣浦湾の奥に位置しています。
そして、江戸湾の存在する地勢を利用して江戸城が築かれたように、衣浦湾に面した場所には刈谷城が築かれていました。
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