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御用地遺跡 土偶 26:牛頭天王の古墳

安城市の碧海山古墳から真西170m以内に位置する堀内古墳に向かいました。堀内古墳は、すでに訪問した堀内貝塚の
https://note.com/38rashi/n/n05267c9139b9

南西40m以内に位置している古墳でもあります。堀内貝塚は縄文時代晩期の貝塚なので、堀内古墳の存在した時代には、すでに人が使用していなかった場所だったと思われます。

●後頭部結髪土偶
1MAP堀内古墳

堀内古墳は東西北を私有地に囲われているので、南側の一般道のある側からしか観ることができない。

1堀内古墳

円墳なのだが、南側の路地と面した部分が更地になっており、そのために前方後円墳という見方も存在したという。

南側の広場には周辺の路地が狭いこともあって、私用車や商用車の駐車スペースとなっており、自分も愛車をそこに駐めた。
墳丘の南側には中央に石段が設けられ、石段の上には社殿が見えている。
石段の麓の右側には「〓外 天神社」の社号標。
〓は読めない漢字。
「天神社」というのは現在の社名ではなく、旧来の社名です。
石段の両脇には瓦葺切妻造平入の境内社と石祠が、それぞれ1基並んでいる。
瓦葺の境内社に関しては現場にもネット上にも情報は見当たらない。
南側から目立っている社叢は松と石段脇の桜。
墳丘下の境内社の左端に教育委員会の製作した案内板『堀内古墳』が立てられていた。

[市指定史跡    昭和40年11月3日指定]
桜井古墳群を構成する古墳の一つです。桜井古墳群の多くの古墳は鹿乗川(かのりがわ)を望む碧海台地端部に築かれていますが、この古墳は碧海山古墳と同様、碧海台地端部でも内側の堀内川によって開かれた谷の内側に入り込んだ地点に立地しています。
かつては、地籍図などの検討により、前方後円墳の可能性が指摘されていましたが、発掘調査によって直径23m、高さ3.5mの円墳に復元されています。しかしながら、古墳の周溝や関連する遺物は確認されておらず、築造時期を特定できていません。
なお現在、墳頂には天王社が造立されていますが、宝暦7年(1757)作成の「堀内村絵図」では「天神」と記され、大正3年(1914)まで天神社が存在したことがわかっています。
本墳は天満古墳とも呼ばれています。それは、菅原道眞を祭神とする天満宮が天神を祀ることのつながりによるものとみられます。

この案内板には以下の墳丘測量図が記載されていた。

2墳丘測量図

オレンジ色部分が社殿と石祠。
これらの社殿と石祠の中の堀内古墳の墳丘の麓に祀られている社のうち、正体のわかっているものは以下の石祠のみ。

3堀内古墳塞ノ神

しめ縄の掛かった石祠の中にある赤っぽい石造物は塞ノ神(さいのかみ)だ。

4塞ノ神

塞ノ神は地方によって呼び方が異なりますので、調べてみたところ、安城市には「塞之神城(さいのかみじょう)」という戦国時代に三河南設楽北東部の作手地方(現・愛知県新城市)を中心に活動した奥平氏の城があった。
安城市では「塞之神」が一般的な呼称のようだ。
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』の項目「塞の神(さえのかみ)」の解説には以下のようにあります。

村や部落の境にあって,他から侵入するものを防ぐ神。邪悪なものを防ぐとりでの役割を果すところからこの名がある。境の神の一つで,道祖神,道陸神(どうろくじん),たむけの神,くなどの神などともいう。村落を中心に考えたとき,村境は異郷や他界との通路であり,遠くから来臨する神や霊もここを通り,また外敵や流行病もそこから入ってくる。それらを祀り,また防ぐために設けられた神であるが,種々の信仰が習合し,その性格は必ずしも明らかでない。一般には神来臨の場所として,伝説と結びついた樹木や岩石があり,七夕の短冊竹や虫送りの人形を送り出すところとなり,また流行病のときには道切りの注連縄を張ったりする。小正月に左義長などの火祭をここで行う場合もある。神祠,神体としては,“塞の神”“道祖神”などの字を刻んだ石を建てたものが多いが,山梨県には丸石を祀ったものもあり,人の姿を刻んだ石や,男根形の石を建てるものも少くない。行路や旅の神と考える地方ではわらじを供え,また子供の神としてよだれ掛けを下げたり,耳の神として穴あきの石を供えたりするところもある。

この解説文の中の「男根形の石」というのが、ここ堀内古墳の塞之神に近いものです。

石段を上がって、社殿の前に出ると、本瓦葺切妻造平入の天王社(てんのうしゃ)が祀られていた。

5堀内町 天皇社

天王社とは牛頭天王を祭神とする祇園信仰の神社のことで、全国的には京都の八坂神社が著名だが、愛知県では多くの天王社が津島神社を総本社としている。
牛頭天王とスサノオは習合しており、明治時代の神仏分離で、多くの天王社が祭神をスサノオとするようになっている。
天王社は石垣を築いた土段上に設置されているが、その土段上の右端に下記の「天皇」と刻まれた石祠が置かれていた。

6天皇社

この石祠は「天王」の当て字を変更して「天皇」としたもので、皇室とは関係無いものと思われる。
この石祠は祀ってあるのではなく、つまり石祠ではなく、社号標なのかもしれない。

天王社の右隣には朱地に「稲荷大明神」と白抜きされた幟と千本鳥居が立ち並んでいた。

7稲荷大明神

鳥居をくぐっていくと、瓦葺流造の稲荷社は白壁で木部を朱に染めた社で、社内には朱ノ鳥居と1対の使いの狐像を設置された神棚が祀られ、伏見稲荷のお札が奉納されていた。

8稲荷大明神

改めて天王社前から南側を見下ろすと、石段下の広場と道路の向こう側には住宅が広がっていた。

9南側眺望

眺望の開けているのは南東方向で、堀内古墳の東側に広がる住宅街の屋根越しに見えるのは三ヶ根山の尾根だろうか。

10東南東眺望

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尾張藩は天王社を主として祀っていたので天王社が多く、大きな祭りもスサノオの祭りとなっており、多くの山車が出ます。そして社内には牛頭天王に由来する茅ノ輪が出ます。おそらく、ここ堀口古墳の天王社でもスペースが小さいですが、祭の時期には茅ノ輪が出るのでしょう。一方、三河は伊勢湾の対岸に伊勢神宮が存在することから、天照大神を祀った神明社が主流になっているように思えます。

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