御用地遺跡 土偶 5:酒人と水管橋
愛知県安城市(あんじょうし)の東部を北から南に流れる鹿乗川(かのりがわ)は矢作川(やはぎがわ)の氾濫原を流れている川なので、必然的に矢作川に沿う形で西側に沿って南に向かっています。
鹿乗川の堤防上は舗装されていないので、鹿乗川の堤防と同じ方向に延びている県道24号線や県道44号線を主に使用して鹿乗川を辿ることになる。
直前の記事の三本木橋で鹿乗川を観て、地図で三本木橋の一つ下流に架かっている東鹿乗川橋への道を探していると、鹿乗川と県道44号線の間を通る道沿いに「酒人神社」という気になる名称の神社を見つけた。
もちろん、ついでなので寄っていくことにした。
酒人神社に到着すると、玉垣や塀などの無い神社で社叢のある地域が社地となっているような神社で、社頭は南側にクロームメッキされた幟柱が立っていることで判った。
境内には社頭から細かな砂利が敷き詰められ、幟柱の奥には石造の八幡鳥居があり、その石鳥居の奥に社殿が見えている。
愛車を邪魔にならない社地沿いに駐めて、社頭に戻ると、鳥居手前左脇の板碑には「美酒発祥地」とあり、右脇の社号標には「郷社 式内 酒人神社」とあり、鳥居脇の「岡崎観光文化百選」という案内板『酒人神社(SAKATOJINJA)』には以下のようにあった。
食物の神様と酒人親王(さかとしんのう)が祀られています。酒人親王は、6世紀ごろ中国から鍛冶や織物、大工、酒づくりの技術を持って日本に帰化した阿知使王(あちのおみ)の子孫で、朝廷の支配力が全国に及ぶようになった時期に、この地に移り住み、わが国で初めて清酒を醸造したと言われています。当地が、今も「坂人(さかと)」と呼ばれているのも、このことに由来していると思われます。
「食物の神様」とは、おそらく保食神(ウケモチ)などの神話の神だと思われるが、具体的な名称は伝わっていないようだ。
「阿知使王」をWikipediaを見てみると「応神天皇時代の漢人系渡来人で、東漢氏の祖と言われる。」とある。
『新撰姓氏録』「坂上氏条逸文」には「七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)およびその子孫、桑原氏、佐太氏等を連れてきたとある。」
桑原氏は鍛冶技術に秀でていた忍海漢人(おしみのあやひと)の子孫。
愛知県知事には24年も務めた桑原幹根(みきね)が存在するが、幹根自身は山梨県の出身で、酒人親王や忍海漢人と関係があるかは不明。
「阿知王は百姓漢人を招致し、」とあり、その末裔として多くの村主(すくり:古代の姓)が紹介されているが、その中で気になる名称を以下にピックアップしてみた。
・漢人村主……漢人系渡来人を示す名称と考えられる
・金作村主……鍛冶技術を示す名称と考えられる
・桑原村主……阿知使王の子孫で養蚕と関連があるとみられる
・高向村主……高向玄理(たかむくのくろまろ:7世紀飛鳥時代の学者)は関係者か
・西波多村主…秦氏と関連する名称
・飽波村主……阿波から転じた名称か
・飛鳥村主……秦氏と関係の深い聖徳太子を暗示する名称
・長田村主……尾張平氏長田氏と関係のある名称か
・忍海村主……忍海漢人関連か
・高宮村主……忍海漢人関連か
・白鳥村主……「白鳥」は聖徳太子の隠喩
・額田村主……天武天皇妃額田王(ぬかたのおおきみ:飛鳥時代歌人)の関連名称か
・鞍作村主……飛鳥時代の渡来系仏師鞍作止利(くらつくりのとり)の関連名称か
上記多くの村主名が「飛鳥時代」や「秦氏」を暗示している。
鳥居をくぐって、表参道を進むと、通常なら拝殿のある場所には改めて縁石の中に白い砂利が敷き詰めてあり、踏み石が残っている。
拝殿部分には金の柱を持つアーチ状のアクリル屋根が葺かれた拝所が設けられており、流造の本殿が祀られていた。
参拝して本殿の軒下の装飾を見上げると、蟇股(かえるまた:装飾構造体)に見たことの無い神紋が装飾されていた。
丸の中の文字は「酉」の異体字ではないかと思ったのだが、調べてみると、似た異体字は複数存在するので、「酉」であることは間違いないと思われるが、全く同じものは見つからなかった。
なぜ「酉(とり)」か推測してみると、この神社に祀られた酒人親王の「酒」から三ずいを省いたものではないかと考えられる。
酒人親王は国内初の清酒醸造者とされているが、『ホツマツタヱ』には「トリ」つながりとも言える、クニトコタチの時代(=神代)にスクナミ(少名御神)がはじめて酒の製造に成功したエピソードがある。
それは鳥(スズメ)が竹株に籾を入れたのが発酵したことにヒントを得たとしている。
「日本酒」の定義では清酒の他にみりんなども含めるため、スクナミが製造したものが清酒とは限らない。
清酒の販売に税金を掛けている国税庁によれば「清酒」を「必ず米を使い、“こす”工程がある酒」と定義している。
それはともかく、本殿の全容を見るために脇に迂回すると、銅板葺流造の社殿だが、屋根には4本の鰹木と外削ぎの千木が乗っていた。
陰数の鰹木は食物の神様(女神の可能性)、外削ぎの千木は男神酒人親王を表したものと思われる。
本殿は瓦葺の白壁に囲われていた。
白壁の外側、本殿の並びには大きな石祠が祀られていたが、祭神の情報は見当たらない。
境内に存在する境内社は、この石祠のみだった。
参道を戻ると途中、境内の西端に東向きに一対の常夜灯があり、その常夜灯から分厚い敷石を並べた3mほどの長さの参道の先に短い玉垣で囲われた石標が立てられた場所があった。
石標には「伊勢両宮遥拝所」と刻まれている。
「両宮」とは内宮と外宮のことだ。
結局、境内社は石祠1社のみだった。
坂人神社を出て東鹿乗川橋に向かった。
東鹿乗川橋は広い歩道を両側に持つ大きな橋だった。
橋上から鹿乗川上流側を見ると、20mほど上流で川幅は15mほどに縮まっていた。
反対側の下流側を眺望すると、川幅は狭まったまま延びており、鴨の姿は見えなくなっていた。
下流側には110m以内に小橋がかかっているのだが、そのすぐ先に奇妙な構造物が鹿乗川をまたいでいた。
その構造物に向かうと西岸の柱の根元には2台のマイクロバスが止まっており、数人の工事関係者が仕事終わりの一服を摂っていた。
一番若いお兄さんに「コレ何ですか?」と声を掛けると、「水管」とのことだった。
工事用のネットで覆われ、メンテンンス中のようだが、これほど規模が大きく、高架の水管橋というのは初めて遭遇するものだった。
ネットで調べてみると正式名は「幸田幹線鹿乗川水管橋」という。
そのデータは以下だ。
外径 3000mm
長さ 32.5m
数 2本
完成年度 1988年
こういうものを一般に「幹路構造物」と呼ぶらしい。
2本の直径3mの管の中にはインフラに関わる水道管、電線、ガス管などが通っているのだろう。
通常の水管橋は橋の脇などでよく見かけるものだが、これほどスケールが大きく、さらに高架の処理をしたものは初め遭遇した。
これもアーチ橋と同じく、堤防が低いことで、鉄砲雨などによる洪水の被害を避けるための処置なのだろう。
堤防を下流側に下って撮影したのが以下の写真。
ネットが掛けてあることでプレーンになり、そのスケールに魅力を感じて惹き寄せられてしまった。
◼️◼️◼️◼️
坂人神社は岡崎市側に属しているのに対し、幸田幹線鹿乗川水管橋は安城市側に設けられている。坂人神社は農業従事者の祀った神社であるのに対して、幸田幹線鹿乗川水管橋は都会生活をする人たちのための施設だ。そこには2つの異なった生業に従事した人たちが存在し、米国ではそのことで南北戦争が起き、今年1月6日に結論の出た闘争につながっている。日本では今や農家も水道、電気、都市ガスを利用しており、対立は起きていないが、それは農業従事者から富(=税金)を取り上げるより、サラリーマンから富を取り上げる方がイージーだからだろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?