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模写修行-オリジナリティを求める前に-

 私は現在画コンテを撮影し、動画として動かして音声を付けた「画コンテ撮アニメーション」という手法でアニメーション作品「多元追憶ストライクエンゼル(ヒリュウ)」を制作している。
 何故本格的なアニメーションとして制作しないのか。それは我々の映像制作組織「Section2」が以前に短編アニメーション作品の制作に踏み切り、ある程度の達成感と膨大な反省点を得て、SF大作を「自分達の表現力でギリギリ人様にお見せ出来るアニメーション作品」という方法論でのヒリュウの制作を考えた結果である。    
 「Section2」は2010年の前身組織設立以来、実に10年間メンバーが入れ替わりつつ多くの作品を制作してきた。そしてその多くが実写作品であった。私が中学の時代、組織立ち上げ時にはヒリュウも一度実写で制作されたことがあるが、それは監督である私の経験不足と高過ぎる理想故に成功と言える出来ではなかった。企画は一度凍結され、「Section2」は実写アクション映画をメインに創作活動を行なっていた。

 2013年、そんな「Section2」に新たなるメンバーがやってきた。ヒリュウの副監督を務めているテラコヤ氏である。私と副監督は高校の選択授業のいくつかが被っていて、当時公開中だった「宇宙戦艦ヤマト2199」の話題で意気投合した。当時の私は実写SFアクション映画「Phantom City 龍ノウロコ」を制作し終えて、新作企画の脚本を執筆しつつ“燃え尽き症候群”状態であった。その時副監督との会話でなんとは無しに提案されたのがアニメーションの制作であった。私はすぐさま脚本の画コンテ化と必要機材の調達にかかった。当時の私は「龍ノウロコ」で燃え尽きていたために、「画力など関係ない!とにかくこの企画に打ち込んで新しい境地を目指そう!」と思った。そして始まった作品が短編アニメーション「セラの旅」であった。

↑これが当時の私の絵である。よくこれでアニメを作ろうと思ったものだ。

 もちろんの監督である私がキャラクターデザインも演出も作画監督も全て担った。しかし作画監督とは名ばかり、メインアニメーターである私と副監督の絵は完全にテイストが異なっていたため、私は最低限の修正だけに留め、スケジュールの都合もあってそのまま撮影へと流したカットも多かった。後に動画マンの手によってトレス、中割りがされるものの、完成映像を見ればどちらが原画を描いたかはっきりと分かるくらいであった。それはどちらが上手い下手という問題ではなく、おそらく二人の絵に対する向き合い方が根本的に異なっていた事が大きな原因だろう。

 私にとっての絵は表現のツールのひとつという認識だった。映像制作の主戦場を実写に置いていたために、最低限の画力と解説があれば、画コンテは丸チョンの人物で十分だったのだ。一番力を入れたとしても、「ここぞ!」という時にデザイン画やイメージボードが描ければ良いという認識で、「上手に絵を描こう」という意識はほとんど無かった。もちろんデッサンは機会がある度に学んではきたつもりだった。小学校高学年から中学前半にかけては現在作家、漫画家として活躍されている川崎昌平氏にデッサンを教わり、高校では選択授業に「デッサン」とつく授業があれば必ず履修していた。これらの経験と時々描いていた落書きの経験から、最低限実写映画を作るには困らない画力は持っていた。しかしそれは上記の「自分達の表現力でギリギリ人様にお見せ出来るアニメーション作品」を作るにはまだまだ、底辺にも達していない画力だったと言っても良いだろう。そして何より当時の自分は感覚で描いてしまう「手癖」があった。オリジナルのキャラで、さらにアニメーションとして枚数を割いて動かす事で多少は誤魔化せたかもしれないが、デッサンの狂いはもちろん、アニメキャラとしての型から脱線した作画のは間違いない。それでも「動かす事」に注力していた私は2013年の夏休み、とにかく担当したカットの原画を描き続けた。絵は下手であったが、完成した原撮は私も副監督も絵が動く事自体が面白くて、まずそのことに感動していたために、画力の足りなさや、絵の統一性は二の次として作業を進めていた。少なくとも私の担当分の原撮がよく見えたのは、フィーリングで描いたが故の躍動感だろう。それはアニメーションにとってはもちろん必要な要素だ。しかしそれではまだまだ「人様に見せられる最低限の絵」ではなかった。それはつまり、私自身が私の絵を他人に見せることに無頓着であり、感覚を過信した上での「手癖」で作業を進めていたからに他ならない。

 そういう意味では副監督は私と対照的な絵描きであった。私が思うに、彼は絵を描くことを「嗜み」として楽しんできたのだ。彼は私よりも漫画作品、取り分けアクション漫画に詳しく、対人アクションモノが結論として苦手な私よりもそれを楽しんでいた。そして彼にとっての漫画やアニメの楽しみ方は鑑賞するだけではなく、キャラクターをなるべくその絵描きのタッチに似せて「模写」することにあったようだ。それを誰かに見せるということもなく、ただノートの落書きとして、しかしなるべくキャラクターそっくりに描くという遊びを行っていたがために、私にはそれが「嗜み」に見えた。彼の絵は鳥山明や荒木飛呂彦、平野耕太の影響が強く、聞くところによるとそれらの漫画家の絵を昔からよく模写していたと言う。また彼は原画マンとして作品に参加した際、「HELLSING」の中森良治作監修正原画集を現場に持ち込み、その原画集を辞書のように片手に持って作業へ取り組んでいた。彼の作画した血しぶきのカットが中森良治風、「HELLSING」の血しぶきであるのは一目瞭然だ。そんな彼が作業の合間に、普段より一段と真剣に絵を描いていた。覗き込んで私は仰天した。

 彼は確かに作業をサボって落書きをしていた。しかしそこに描かれていたのは中森良治の描いた「HELLSING」の大尉そっくりの大尉であった(上の画像)。彼は原画集を真剣に眺めながら、中森氏の引いた線の強弱まで再現しようとしていた。フィーリングで「それらしく見えればいい」と描いてきた私とは全く逆のテクニックだ。その時点での彼は私よりも何倍も「模写」のスキルを持っていたのだ。
 そこでハッと、彼とアニメーションを制作する以前のことを思い出した。それは私と彼が履修していた鉛筆デッサンの授業でのことであった。「デッサンは観察だ」と、その授業だけでなくデッサンを教わる際は必ず言われてきた。その上で私はシルエットとバランス、そして陰影から対象物の立体を平面に落とし込む事を主眼に課題の石膏デッサンに取り組んでいた。その時副監督もまた同じ彫像をデッサンしていた。私はバランスを見ながら面と面の繋がりとそこから出来る凹凸による陰影を、彫刻のように調整を加えながらデッサンをしていたが、彼は私にとって見たことのない手法から制作に取り掛かっていた。それは、私が目に映った陰影を抽象的に絵に落とし込んでいたのとは正反対で、顔のパーツの比を測り、髪の編み目の数を正確に数える「測量」を行っていたのだ。

「デッサンは観察である」なら、陰影から立体を表現し、結果的に髪の編み目を再現するのも、編み目の数を数えて測量に基づき形を決定するのも、描き方としては間違いではないだろう。しかしここで私と副監督の絵に対する感覚が完全に異なっていることは明らかである。私が自分の脳内で処理された画像をアテにする、フィーリングを頼りに描画するのに対して、彼は実物そのものを客観視して、自らの感覚を修正していく、つまり自らのフィーリングを疑う事で絵の確度を上げようとしていたのだ。その時感覚で絵を描いていた私としては彼の測量による「再現」手法について理解できなかった。しかし絵を感覚ではなく客観的に測量し「再現」する彼の手法による模写には到底敵わない、と大尉の模写を見た時に感じた。

 ではそこから私がどう意識改革をしたか、ようやく本題だが、彼に対抗するわけでもなかったが、何とは無しに始めたのが好きなアニメのカットやイラストの正確な「模写」であった。意図していない模写は時々行っていた。例えば…

 これは2012年、「異世界の聖騎士物語」に登場したメザイアを描いたものだが、元の絵を参考にしつつ「手癖」で描いためちゃくちゃなもので、謂わば「当てずっぽう」だ。間違いなく1枚目の画像を見ながら描いたかに違いないが、そこには私の主観と願望によって再構成され、元の絵にある要素が何ひとつ残っていないフィーリングの産物がただ描き殴られただけだ。これはメザイアを描きながらも、明らかに模写とは言えない、参考程度とも言えるか怪しいところだ。
 これが短編アニメーションの制作を経て、経験値を積んでから「模写」に挑戦すると以下のようになる。

 これは2014年に描かれた「マンガ家さんとアシスタントさんと」のワンカットを模写したものである。Section2で取り決めた色鉛筆による影、ハイライト指定も取り込み、このカットのレイアウトを再現しようと試みたものだ。まだまだ正確ではないが、影、ハイライト指定もきちんと描き込んでいるだけあって、模写の初歩としては及第点だろう。ここで重要なのは、髪の毛のハイライトや、顔にかかる影、服の質感などを描く際にフィーリングで省略、或は加筆しない事だ。デッサン的な正確さも去ることながら、絵としての情報も蔑ろにせず再現するのが模写の基本である。とにかく元の絵と並べた時に及第点を得られる正確さ、再現性を得る事が重要なのだ。
 再現の正確さを理解できたら、次にやるべきは再現できる絵描きのレパートリーを増やす事だ。副監督が鳥山明や平野耕太、中森良治をレパートリーとしているように、自分の「手癖」でもある程度の再現が可能なレベルまで一人の絵描きの絵を模写するのだ。

 最初に私が手をつけたのは原画集を持っていた「エヴァンゲリヲン新劇場版:Q」から、ベテラン本田雄氏の原画だ。上の渚カヲルは再現性の面では高いものだが、貞本義行のキャラクターは難しく、本田氏の作画であっても再現が難しい事が多い。何より、再現作業をするにあたってどの情報を見落としているかを発見するのが難しかった。その発見作業の段階で挫折しては修行はただの苦行に終わってしまう。

 そこで私が出会った作品が「ガールズ&パンツァー」である。ガルパンのキャラクターデザインにはリアリズムよりもデフォルメが優先されており、シルエットでキャラクターの個性を出すことに注力している。キャラクター原案の島田フミカネ氏の絵は再現が難しいが、原案からアニメ用にデフォルメされた杉本功氏のキャラクターデザイン、及び原画は情報が整理されており「模写」「再現」にはとても良い教材だった。2017年の一時期私はとにかく毎日A4一枚分ガルパンのキャラクターを模写した。

 そして「模写」の一番のメリットに気づく機会がやってきた。それは以下の絵を模写し終わった時である。

 多々問題点は有るが、この二つの絵が似てない最大の理由は目の位置にあるだろう。これが私にとっての最大の弱点だったと言える。具体的に言えば目の位置が中央に寄りがち、つまり寄り目になりがちだったのだ。他にも模写やヒリュウ等の絵から極端な例を挙げてみる。

 つまりフィーリング、「手癖」に任せて私が人間を描く場合、寄り目になる事が「模写」によって発覚したのだ。これは上手い絵を再現し、客観的に元の絵と照らし合わせる作業が必要となる「模写」ならではの気付きだ。「模写」はオリジナルや「手癖」で描くこととは異なり、明確に正解が存在する。オリジナルの絵であれば、例え寄り目であっても「俺のキャラは寄り目なんだ!」と言い張ることもできるが、「模写」においてはそうはいかない。目の位置が異なればそれだけで再現性に大きな狂いが生じる。特に目は、人間が人の顔を認識する上で最初にフォーカスする部分でもあるため、その位置が狂っていることは絵の同一性を破綻させてしまう。この点に気が付きさらにガルパンの「模写」を重ねて、絶頂期に出力されたのが以下の絵だ。

 この絵を見て、「ガールズ&パンツァー劇場版」のある1カットを思い起こす人も多いことだろう。元の絵がこちらだ。

 後から見返せばまだまだ改善の余地は有るが、ひとつ前の絵に比べれば及第点であろう。決定打は目と目の間隔と角度だ。これを抑えているが為に、この絵の同一性、再現性は保たれている。少なくとも杉本氏の作画するキャラクターのポイントは習得する事が出来たのだ。

 では「模写」が「手癖」に影響を与え、有り体に言えば「絵が上手くなる」と言う状態はどのような変化として現れるのか、ヒリュウのキャラクター絵で見てみる。

 この2枚は同じカットの修正前と修正後である。目の位置を始め、輪郭やバランスの取り方がアニメキャラクターらしくなっている事がお分かりいただけるだろう。上の絵に対して下の絵がつまり「最低限鑑賞に耐えうる絵」なのだ。ここまで描けてようやく人はそこに描かれているものが人であることを最低限理解してくれるのだ。
 現在私が取り組んでいるヒリュウの画コンテ作業のほとんどが、このような「模写」による経験値を活かしたキャラクターの修正作業である。20分作品を楽しんでもらうための最低限のクオリティーは、「模写」「再現」と言う修行のを積んでようやく獲得した「手癖」ではない「画風」によって保たれているのだ。そしてそこから派生してようやく人目に晒せる一枚絵も完成させられるので有る。

 SNSで絵を投稿している人には、副監督や私のようにキャラクターの「再現性」に重きを置く人もいれば、自身の「画風」に合わせてキャラクターを描く人もいる。しかし「画風」で描いている人の全員が全員「再現性」の高い絵を描けるとは限らない。中には「画風」を過信してただの「手癖」でキャラクターを描いている人も少なくない。そういった「手癖」から脱却する為に鍛錬を積み、経験値を増やして「画風」を勝ち取る人もいれば、「手癖」のまま上達しない人もいる。しかしひとつ言えるのは、フィーリングと過信を客観的に見直さなければ、どの道弱点に気付けないまま絵を描き続ける事になる。自身の「手癖」を一度排除し、「模写」による再現性の追求を行う事で、「手癖」の中の悪癖を取り除く作業も必要であり、それは考えを絵に落とし込むデッサンと同等、或は基礎デッサンを習得した後の伸び代作りとしてはデッサンを重ねる以上に重要な作業であると言えるだろう。 
 少なくとも私は、お金を払って教室にデッサンを習いにいくよりかは、好きなアニメのカットを正確に再現する方が上達への近道だと思う。「模写」による再現が日本の創作、同人誌制作、絵の嗜みのクオリティ上昇に繋がると私は確信している。描く人も見る人も、完成度の高い絵を自らのものにできれば皆が幸せになれるだろう。同人誌も「表紙詐欺」等と揶揄されず、クオリティが爆発的に向上することは間違いない。故に「模写修行」の浸透を願いたい。

 長くなったが、最後に私と副監督の「模写」で締めたいと思う。

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