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エンタメと歓待

年末の勢いで書きなぐる

赤の他人があなたの家の戸を叩いた。
あなたはその人を家に招き入れるであろうか。

自覚、僕はエンタメ性の高い人間である。
客人を楽しませることが大好きで、もしかすると得意かもしれない(しかし得意であることは必ずしもエンタメ性の高さを表すわけではない。なぜなら不得意なこともまた逆説的にエンタメ的だから)。

事実、年末年始はエンタメ性の高い時間である。
普段素っ気ない同僚が「良いお年を」と微笑んで帰っていく。
帰省先の家族を思って土産を選ぶ。
迎える家族も料理の支度を進める。
公共交通機関、サービス業界の人々がこれを支えている。
テレビも特別番組で溢れている。
年末年始に休む芸能人なんてほぼいない。
日本の誇る音響、照明、舞台技術者が総力を上げて彼らを支えている。

全ては大切な人を楽しませるため。
それが今こなすべき仕事である。

明日の朝は年賀状や代わりのSNSでのメッセージに喜んでいることだろう。
まったく押し付けがましい。

本稿の主眼はこの「エンタメの押し付けがましさ」を批判し、「楽しませる」のではなく「楽しめる」状況の生成を目指すことにある。
めんどくさく言うと、全員に主体性を捨てて欲しいと願っている。「楽しませよう」という意気込みが双方にとって楽しく、また辛いのである。

と、主眼を話した瞬間にやり終えた感があるので手短に。年末残り少ない時間でこの文章を読ませてしまってることが申し訳ない。もう結論は話したので、あとは補足です。

例えば紅白の舞台はエンタメ性が極度に高い、がそれは同時に「楽しまなければならない」状況を作っている。僕が何を望んでいるか。演者と観客の関係性を対等にしてほしい。

演者はなにか凄い技能を持っている。
ゆえに聞かなければ、見なければならない。
足を腕を組まず、ペンライトをここで振って。

観客はお金を払っている。
否それ以前に観客なしに舞台は存在しない。
親の死に目に会えなくてもShow must go on

…各自が本気で「楽しませよう」と思っていることになんの批判もない。しかし、そこに生まれる相手への拘束についてあまりに無批判過ぎるのではないだろうか。「楽しませる(entertainment)」のtainとは「掴む」すなわち「拘束」である。自分が上手く楽しませるために、都合のいい形で相手を拘束している。その事に(自省を込めて)負い目を感じなくてはならないだろう。

観客が上演中に携帯をいじりお菓子を食べる。
携帯を見ないことはそれだけでストレスになりうるのだから。そうした客に対して感じる「楽しませたい」ではない怒りに我々は自省しなくてはならない。決してそれを拘束する権力は「楽しませたいから」という暴言の中で許されてはいけないのだから。

私が求めているのはエンタメではない。
私の家を訪れた赤の他人を楽しませることではない。
その人をただ招き入れることだけである。
その人が偉いから招き入れるのではない。
招き入れる私が偉いわけでもない。
そのゆるやかな承認を「歓待」と呼ぶのかもしれない。

蛇足、2024年の僕の目標のひとつは「どこから見てもいい。いつからいつまで見てもいい。食べても喋ってもいい芝居」を作ることである。
歓待の舞台をつくっていきたい。

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