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《哲学》努力の必要性


※本稿は不自由落下運動さまの投稿を受けて書きなぐっている。僕の文より何倍も良文なため、どうぞ先にご一読を。


はじめに、哲学者スピノザの宿命論の理解から。
原因が結果を決める。
それなら今後引き起こされる結果も全てすでに決定されているだろう(これを宿命と呼ぶ)。

例題をあげよう。
僕はこの正月に6キロ太った(繰り返すが例題である)ため、ダイエットを決意した。しかし今日の僕の体調がどのような状態で、そんな僕の体が何を食べようとするか、そしてそれらがどう消化され、明日の体調をどのような状態にするか。原因が結果をうみ、その結果が原因となって新たな結果をうむ。全て不明であるが因果関係の中で定められていることは科学的事実である。加えて、そもそも太りやすい体質というものが存在する。ゆえに僕がダイエットしようとしまいと、苦労しようと努力しようと、結果は変わらないのではないだろうか。

じゃあ僕が努力する意味はなんだろう。
もしかして、無い? 頑張らなくていい?
努力しても結果は変わらない?

古人はこれを指して「怠け者の詭弁sophisme paresseux」と呼んだ。哲学者ライプニッツが『弁神論』でスピノザを批判するために熱弁してるので是非読んで頂きたい。かなり面白いのはそこでライプニッツが「それは正しくないから誤りである」という議論ではなく、「皆が怠惰になってしまうから良くない」という通俗的な議論を展開している点である。
スピノザの掌の上である(余談)。

しかし、スピノザの主眼はまさに「しかしだからこそ、努力が必要である」という点にあるのだ。
以下、その要点を説明する。

重要なことは「努力しても結果は変わらない」という主張が誤っている点にある。というのも、僕らは誤って理解しているが、そもそも「努力をするかしないか」ということすら我々の選択可能な範疇ではない。僕がダイエットを決意したのは何も理由なしでは無いだろう。
それは痩せたいからであり、身体の健康のためであり、外見至上主義的な視線を内蔵しているからであり、1月中旬の季語のようなものだからである。
僕はダイエットをするかしないか悩んでしたのではない。せざるをえずしてしまっているのである。

例えば2人の比較をしよう。
AさんとBさんがダイエットの話をしている。
2人は目標マイナス6キロをかかげ、決意を固めた。
その結果、Aさんは〈努力〉し順調に減量に成功していたが、対するBさんは〈努力〉をせず残念ながら減量に失敗した。
さて、AさんとBさんの違いはなんだろう。
Bさんは意志が弱いのだろうか。


違う。
僕らは炎にナトリウムを入れた時に黄色の炎色反応が起きなかった時、「この炎は意志が弱い」とは言わない。炎色反応とは「なろうと思ってなること」ではなくならざるをえないものだからだ。
原因となるナトリウムに誤りがあったのではないかと疑うべきである。
2人の決定的な違いはまさにダイエットを努力する原因の有無にある。Aさんには、ダイエットせざるをえない理由(原因)があったが、Bさんにはその理由(原因)がなかった。する必要がなかったと言える。ナトリウムを放り込まれていないのに黄色になる炎は存在しない。

努力する原因がないために努力が行われない。
ゆえに期待されていた結果も発生しえない。

これは逆を返せば、当然努力をすれば結果は変わることを表す。先の問題が解決された。

既に充分理解されていると思うが、だから努力は必要だ、という議論を展開したいわけではない。ではなく(ここがスピノザ倫理学の核心だと僕は考えているが)、努力が必要になる準備を我々は進めなくてはいけないのだ。

努力とは、間違いなく「その瞬間の各人の100%を発揮すること(不自由落下運動)」である。
そこに僕が付言できることはひとつ。
その瞬間に僕らにできることは何も無く、僕らはただその瞬間が到来する時を予見して、100%を出せるようにメンテナンスやプログラミングを整えるのだ。

ただ、その一瞬のために。

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