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愛されるとは? GEAR観劇ノート

韓国 済州島のホテルでこのノートを綴ってる。

サマフェス東京遠征(後日投稿予定)を終えて休む間もなく新潟を発ち済州島へ。その経由地として関西が選ばれた。理由は以下の2点。

①済州島への直行便が関空からしか飛んでないため
②関西に半日でも寄れるなら観たい芝居があるため

専ら主眼を②に置いて話した方が良いだろう(僕の出張話に興味がある人はおよそ居ない)。バタバタとした中だったが念願のGEARを観劇することが出来た。

結論:序盤は隠して最後にドッキリ大成功!
みたいなのはエンタメとして不親切だという反省録

GEARとは?
2012年から京都に専用劇場を構え、[音声言語を用いない]という制約の下、演劇でも、ミュージカルでも、サーカスでもない舞台を提供する一団らしい。

展開はシンプル。
ある日ある時ある部屋で、赤、青、黄、緑、4体のロボットが日常を繰り返していたところに1体のドールが届く。ドールに手を握られると「活き活きとした個性が溢れ出す」。そんな魔法のドール。

赤はパントマイム
青はマジック
黄はブレイクダンス
緑はジャグリング

ロボットのぎこちなさからは想像できない身体性の高さに圧倒される1時間半だった。何より感じたのは「愛されるヒントがここにある」という実感。
愛される役者、愛される作品、愛される劇団。その条件を探そう満たそう、と邁進してる中でこのGEARと出会えたことはとてつもなく有意義であった。
以下取り留めもなく。

●舞台美術
ひとつに絞られた入口から入った瞬間息を飲むわんぱく感。第一声で褒めたくなる、写真を撮りたくなる舞台美術ってのは難しいけれどやっぱり目指したい。一切のテンプレートを捨て、否応なしに想像力をくすぐる立体感。
そしてGEAR舞台のすごいところはどこまでも動くところ。もちろん音響照明との合わせ技もあるが、本当に四方八方が動く(壊れる)。全くの推測だが最初はもっと簡素だった舞台に役者が住み着き、その中で暮らす過程を経てどんどんと可変パーツが増えていったんじゃないだろうか。役者の技量としてなんなら素舞台でもマイムで見せられるだろうに、お客さんの「楽しみ」という気持ちを優先してくれた結果の現状なんだろう。変に技術を見せつけたいわけでも、ハラハラさせたいわけでも、謎解きを見せたいわけでもなく、『楽しませたい』という大前提に立脚していた。気づかせたがりの隠したがりとしては耳が痛い。

●音響照明
完全暗転で始まり完全暗転で終わる。
専用劇場だからこそ、全ての舞台美術に合わせて踊る照明。微細な機械音まで適切な場所から噴出する音響。音声言語を使用しない、という意味では〈舞台〉という役者の非音声言語が音響照明だったと言えるだろう。これもまたシックスメンとして、愛される舞台になっていた。
あのおびただしい数のQを1人でこなすって。。。

●役者(と呼ぶことが適切なのか?)
個々に相当な経歴を持ってる方が集まっているが、そういった方が安定した形でアウトプットする場をもてる、というこの劇団の存在意義にただただ頭が下がる。パフォーマンスを趣味として続けつつ、安定したアウトプットの場所をもてずにいる人の以下に多いことか。
それぞれが自分の強みを活かし、なおかつ高い基礎力としてのロボットダンスや視線の誘導を1時間半繰り広げる。それだけで楽しい企画ではあるが、やはりいちばん凄いのはそこにノンバーバルの縛りをかけることである。
高校演劇のように過度にセリフを重視する文化圏から見ても、言語を用いないという縛りは強烈だった。が、その効果を肌で感じることもできた。一切「言語」という壁を作らない、バリアフリーな芝居である。この効用は大きい。言語を使うということは知識を使うということで、その言葉を知らない客はそこで追い出されてしまうのだが、この作品で客は自分の脳内でセリフを補填するも良し、言語など忘れて目で追い続けるも良し。
こちとら自由に楽しんでいるのに、それが演出家の術中であることもわかっている感じがたまらなく楽しい。
「愛されるキャラ」の作り方として、隠さず表現してくれる役者かどうか、という点があるのではないか、と感じた。
結局のところ客が芝居に共感できるかどうかは、冒頭数分間の役者と客のコミュニケーションから得られる役者に対する信頼感に基づく。そのため、役者が「あとですごいこと言うから今は身を潜めとこ」とか、「この時は特に明るくないから影を薄く」とか、様々なリアリスティックな建前で表現を辞めてしまうと客にとってそれは信用ならない役者になってしまうのだ。その意味でGEARのロボット達はこぞって自分の現状を表現しようとし続け、本当によく「喋ろうとしてくれる」キャラ達だった。
遠慮するやつは愛されない、とまでは言わないが、ネガティブだから、キレてるから表現しないというのは誤りであったことに気づく。

インサイドヘッドの「カナシミ」もずっとネガティブを表現し続けてる。あれも間違った芝居をしてしまうと「ただの影薄いやつ」になってしまうんだろう。GEARの冒頭で一番かわいそう(ほら、もうその時点で共感させてる)な緑ロボットが、最後の最後に残された時、客は「あ、まだいたっけ」「そんなんいたねえ」ではなく、「そう!ずっと待ってた!見せて!」という気持ちになった。構成の妙である。

結論。
僕の脚本は「最初は隠して最後にドッキリ大成功!」の形を取りやすい。「えー!」と思わせたい気持ちが強く出てしまう。けれどこれはかなり見にくいんだろうな、と反省した。
お客を当事者に置いてしまうためストレスの方が強くなってしまう。そうではなく、最初からあらゆる感情をしっかりと表現し、客がまず「このキャラがどういうキャラかよくわかった」という状態を作ってから、キャラクターと一緒に謎に挑んでもらう。その形が観劇の推進力を産むのであり、この推進力を「愛され」と呼ぶのだろう。

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