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考察! 鎮魂の世界観 Part2

 メディア事業部のIです。大好評リリース中の『鎮魂』が第二部に入りました。
前回の記事(https://note.com/3791subarusya/n/n449bf86d33e6)に引き続いて、今回も鎮魂の世界観に浸るべく、ちょっとした考察をしていきたいと思います。

鬼ってオニ?

 よく鎮魂に出てくる鬼たち。これが日本でいうオニとは違うということは皆さんよくご存じだと思います。日本で鬼と書くと、角の生えた恐ろしい顔のアレですよね。節分とかにやってくる赤とか青い顔の……。

 でも、鎮魂に出てくる鬼はちょっと違う。棍棒とか金棒を振り回して、怪力で暴れまわっている感じではありません。

 一般的に中国では、「鬼」といえば、死者の霊魂、亡霊のことをさします。そのほか、この世とは違う世界からやってきた「この世の存在ではないもの」も鬼と言うようです。『鎮魂』にはこのような鬼が出てきて、多くは悪さをします。

 中国と日本の「鬼」は全く異なる意味を示すため、中国風に「グイ」と読んだ方がいいかもしれません。日本でも、「鬼籍に入る」(亡くなること)とか、「護国の鬼」(戦死した人)とかいう成句がありますが、いずれの鬼も日本のオニより中国のグイの方が意味は近いです。

 趙所長のポリシーである「鬼に関する事件は喜んで引き受けるが、人間界のいざこざは真っ平御免」(第21話)というのは、この世の俗事についてのトラブルは御免だがあの世(異界、異世界)のことは何でもどうぞ! ということなのです。

道教の魂魄観

 中国では魂の他に魄(はく)という霊魂観があります。魂と魄はセットで、「魂魄(こんぱく)」と読みます。
 簡単に言えば、魂は精神的なものをさし、魄は肉体的なものをさします。陰陽思想では、魂は天に帰り、魄は地に帰るものとされています。

 以上は道教的な霊魂観ですが、民間では魂魄にもいろいろな種類があるといわれていて、三魂七魄という言葉があります。魂を3つに、魄を7つに分類したものです。中国はとても広い国なので、土地土地で信じられるものは違います。道教的な霊魂観をベースに在地の霊魂観が混ざって、地域によって多様な霊魂観があるのです。
 
 これらの霊魂がしっかりと帰らない、何かが原因でこの世に留まったり、この世にやってきたりすることで『鎮魂』の作中のような事件が起きてしまうわけです。趙所長たちの仕事はこれらの魂魄を鎮魂することにある。つまり、正しく帰るべきところへ導くというのが彼らの仕事の目的となっています。作中にキョンシーは登場していませんが、魂魄のうち、魄だけが留まってしまった存在がキョンシーで、やはり悪さをします。どっちかが誤った形でこの世に残ってしまうと「危ない」ということでもあるのです。

 生きている状態はこのような魂魄が同じ場所にある状態でもあります。ですが、死後はこれらが分かれます。魂は天に、魄は地に(土葬であれば腐って無くなるということでしょうか。キョンシーは魄が留まっているので腐りません)行かないと恐ろしいことが起きてしまうのです。

鬼=悪いというわけではない

 こうやって解説すると、鬼って怖い存在で悪いやつなんだという考えを持たれるかもしれません。ですが、その原因はどのようなものであっても、正しくあの世に導かれなかった不幸な存在でもあるのです。原義は単純に死者の霊という意味ですが、やはり正しく扱われなかったわけですから、物語の中では悪いほうに流れてしまうことが多いのかもしれません。
 
 作中では小さな女の子の霊(女鬼、小鬼)が登場します。人を食うとか、死の世界に引き入れるとか、そういうことをするわけではなく、郭長城にいたずらをするだけの存在だったりします。

 それだけでなく、正しく扱えば、味方になってしまう鬼もいるわけです。特別調査所のゆかいな仲間たちはたぶんそういうこと(?)です。

『鎮魂』では上記の概念に縛られないというか、いろいろな人? 鬼? 妖怪? のような存在が登場します。そういうキャラクターたちの個性が光る鎮魂の第二部、お楽しみいただければと思います!

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