鑑賞ログ「パーフェクト・ノーマル・ファミリー」
幸せな家族だったはずなのに両親が離婚することに。理由は「パパが女の人になりたいから」!?11歳の主人公・エマは、ある晴れた日、家族全員でピザを食べようと集まった食卓で、「私たち離婚する」と母親に告げられる。その理由は、パパが女性になる道を選んだから。…それってどういうこと?全然理解できない。私が大好きなパパはいなくなっちゃうの?という話。
なぜか姉はトランスする父(彼女)を素直に受け入れるけれど、エマには無理。だって今までとあまりにも違うから。
人は多かれ少なかれ、自分以外の人間の属性を自分の中である程度カテゴライズしてていると思う。実は相手がそのカテゴリーの人間ではなかった時、ちょっとバグったりしながら、修正をして人付き合いをしていくんじゃないかな。それは、家族だって同じ。エマの場合、父親だとカテゴライズしていた人が、父親ではなくなり、さらに男性という属性でもなくなろうとしていることを目の当たりにしなくてはならない。それは、エマちゃんバグらないはずがない。父親という近すぎる存在のせいもあるでしょう。
韓国映画の「はちどり」にも通じる、10代前半の少女が人生の手前、何者かになる前に味わう、大いなる喪失の物語だと思う。
ずっといると思っていた父親という存在がいなくなるというか。言い方が難しいな(フェミ界隈に攻撃されたくない)。でも父親だからとか、男性だからとか、そういうことではなく、人として付き合うことができたら、きっと幸せ。そういうことなんじゃないかな。父親として認識していた人を愛していることは全くブレない。
パパ役の俳優が実際はトランスじゃないからこの作品を認めないとか、自分が寄稿している雑誌で評価できないとか言ってる某ライターがいるけれど、全然理解できない。
もっと作品の本質を理解したほうがいい。これは、ある一人の女の子の成長物語で、その要素として、監督が体験した父親がトランスする、ということが描かれているだけ。
なぜにジェンダー論界隈の人たちは一つの社会の要素としてLGBTQの存在を描くことを過剰に許さないのだろう。もちろん、それが作品のメイン要素で、そこに対して問う作品だったら、違うロジックもあったかもしれないけれど。でもこの作品で伝わってくるのは、11歳の少女が直面した大きな問題をいかに乗り越えて、人生の入り口に立つのか、ということ。
作品の宣伝とか、そういうものを持って作品を攻撃するのは、映画という文化を愛する人がするべきことじゃないよ。気に入らないなら黙っていたほうがいい。
そして、もっと規模の大きい作品は攻撃しないのはなぜなのか。その人、私が見る限り「エターナルズ」には一切言及しないもんね。口コミが作品の成功を左右するアート系映画について、ライターという立場で攻撃するのは愛が足りないと思っちゃうな。
父親が女性になるにあたって、エマは自分を取り残して周囲がどんどん変わっていくような心境になる。そこに彼女がいかに順応して、「自分」という軸を作るのか。それがこの作品の主題だと思う。そのピュアさと、娘を愛しているけれど、自分の人生も行きたいという元父親の気持ちのすれ違い。誰も悪くないからちょっと切ない。
ちなみに、元父親役を演じるのはミケル・ボー・フォルスゴー。『ロイヤルアフェア 愛と欲望の王宮』でマッツ・ミケルセンに妻(アリシア・ヴィキャンデル)を寝取られる王様役をやっていたのが懐かしい。久しぶりに観れて嬉しかったな。