SS「少し早い春に咲いた華」
桜の蕾が春の匂いを嗅ぎつけ、芽吹く刻を今か今かと待ち詫びている頃。2月26日。合格発表の帰り道、家に向かわずその足で学校に立ち寄った。真っ先に会いたい人がいたからだ。校舎の中には入らず、校庭へ向かう。いつも通りなら、きっとここにいる。思えば、いつもここで二人で過ごしていた。
「やあ」
雪さえ降ってしまうのではないかと思うほどまだ寒さの残るなか、その人物はそこにいた。誰よりも先に会いたい人だった。こちらに気がつくと、声を掛けられた。チノ先生、と叫び出したい気持ちをぐっと飲み込み、帰り道ずっと考えて用意してきた言葉を口に出そうと思った。でもいざ先生を目の前にすると、そんなものはどこかへ飛んでいってしまい、声にならない音だけが口から漏れ出た。
「合格したんだってね、おめでとう。君がよく頑張っていたのを私は知っているよ、本当におめでとう」
頑張りを見てくれていた嬉しさよりも、何よりも、今こうして先生に会えたことに嬉しさを覚えた。チノ先生はいつだってよく見ている。それが貴女らしさだと感じる。
「それから……一足早いけれど、卒業おめでとう。あれから三年、君と出会ってからもうそんなに経つんだね。早いものだ」
温かく微笑んで細くなった先生の目を見ると、出会った頃のことが自然と思い出された。
あの頃は、校庭の隅っこでただ詩を書いていた。来る日も来る日も、馬鹿みたいに言葉を紡いだ。色んなことが上手くいかない焦燥、彩りの無い日常、言い知れぬ厭世な気分ーーどれも、筆を執るにはあまりにも十分すぎる理由だった。あの頃は何も無かった。空虚だけが満ちていた。たまたま傍にあったのが筆だったから、内に溢れるこの感情を吐き出して吐き出して、これでもかと吐き出していた。燃えるとも燻るとも、凍るとも言えるようなこの心に満ちるものを、ただただひたすらに書き殴った。
そして、そう、たしかあの時もーー入学して少しした頃、「やあ」と声を掛けられて見上げた先には、貴女がいた。担任の先生が何の用だと、綺麗事を言おうもんならと、半ば変な反抗意識で身構え、小さく悪態をついた。そんな様子を見た貴女は表情一つ変えず、「隣良いかな」と腰を下ろした。
「桜、散ってしまったね。もうじき夏だ」
特に何か言葉を返すわけでもなく、そちらを向くことも無く、ペンを走らせる音で代わりに返事をした。込めた想いとは正反対に、紙と芯先とが擦れる心地好い音が辺りを包み込む。
「ここは良いね、まるで時間が止まったみたいで……何かが嫌になった時に、ピッタリだ」
ふと、息を多く吐き出したような、少し弱々しく感じられた先生のその声が気になって、動かしていた手を止めてチノ先生の方にちらと顔を向けた。
「ふふ、やっとこっちを見てくれたね」
こちらを見てそう微笑んだ先生の顔は、いつものような顔とも、少し影を孕むような顔とも、嬉しさを含んでいる顔とも、様々に解釈できる奥行きのある表情だった。その表情に動揺して、それからどんな会話をしたのか覚えていないけれど、そのあとの日も時々やって来るチノ先生に対して、いつからか自分から話しかけるようになったのは覚えている。
学校でのチノ先生は人気者だ。男女問わず慕われていて、その周囲にはいつも人集りがあった。生徒に囲まれて楽しそうに笑いながら話すチノ先生を、遠くの席から眺める少し寂しい日々も、こうして時折この場所で会えている日常に変わると、いつの間にか嬉しかった。学校での小さな楽しみの一つだった。
いつも教室で見かけるような輝いているチノ先生とは異なり、この場所で見かけるチノ先生は、どちらかというと何かを儚んでいるかのような、時に遠くを見つめるような眼をしている。そんな表情も好きだった。
ノートに綴っていた詩は、気が付けば書くのをやめていた。代わりにチノ先生に吐き出していたからだ。先生は何も言わず、ただ相槌を打って聞いてくれる。時にはふわっと心が温かくなるような言葉もかけてくれる。それがとても心地良くてつい甘えていた。だからたくさん話した。いっぱい話した。これまでの人生のすべてを言葉にした。チノ先生に受け入れてもらっているようで、その内に自分の中でも明るい感情が取り戻されていくのがわかった。
そうしてチノ先生と過ごす日々、いくつかの季節が過ぎ、心の氷が溶けた頃。友達ができたり、授業が少しずつ理解できるようになったり、毎日が僅かずつ色付き始めた。それでも「あの場所」に足を運ぶのは欠かさなかった。チノ先生に会いたかったからだ。最終的に先生とは色んな話をした。先生の身の上話とか、お互いに好きなものとか、これからやってみたいこととか。たくさんたくさん話した。おかげで学校生活は楽しかった。楽しくて、楽しくてーーそして、三年が過ぎていた。
そんなたくさんの想いが、いまこうしてこの場所でチノ先生を目の前にして蘇ってきた。
「これから君は、たくさん傷ついて、失って、間違って、彷徨って、大人になっていく。いつかの私のように。そしてその中で、私と過ごした毎日がどうか君の道標になることを祈ってるよ」
チノ先生なりのそんな餞の言葉に、なぜか「終わり」を感じ取ってしまう。嫌だ、嫌だ、終わりになんかしたくない。
「先生はーー貴女は、いつもカッコよくて凛々しくて、みんなの中にいる時はとびきりの笑顔で、生徒が喜ぶことも知ってるし、優しい言葉をかけてくれるし……かと思えば、時折何かを抱えたような表情を見せるし……そんな貴女に、心を鷲掴みにされて、夢中になっていました。先生のこと、大好きです。卒業したあとも、ずっと先生のことは忘れません。ずっとずっとーー先生の生徒でいさせてください」
胸の内からなんとか衝動的に吐き出したこの言葉を、チノ先生は正面から受け止めたあと、少し悪戯っぽく笑って言った。
「おや、卒業式はまだちょっと先だっていうのに……少し気が早いかもね。君はまだ私の大事な生徒だよ……そして、卒業してからも、ずっとね」
今すぐ抱きつきたい衝動と、溢れそうになる涙とを必死に堪え、へへ、とチノ先生に精一杯の笑顔を向けた。先生も、うむ、と力強く頷いて返してくれた。
「あ、桜」
何かに気付いた様子のチノ先生が見つめる先には、小さく花が咲いた枝があった。先生は、ふふ、と小さく笑ってこちらを見て言う。
「君と同じだ。ちょっと気が早いかもね」
ああ、今だけは、時が止められればいいのにーー