
人間は生かされている
人間は生きている存在ではありません。
生かされている存在です。
我々が当たり前に使用している肉体と心は与えられたものです。
体験も与えられたものです。
肺や心臓などの臓器は意識せずとも働いてくれます。
身体は体温を適切な温度を保とうとします。
身体が損傷したり、不調になっても自動的に治してくれます。
栄養が足りなくなればお腹がすき、不要なものは体外に排出しようとします。
我々は生命維持のために大した努力をせずとも生きていられます。
これは生かされている証拠ではないでしょうか?
生かされているということは与えられているということです。
神は意味もなく与えることはありません。
意味があるから命を、肉体を、心を、体験を、その他一切を与えるんです。
神の意味とは歓喜、弥栄です。
皆さんを含め、今を生きる人達は歓喜、弥栄の実現のためにあると言えます。
また、それが実現可能だから与えられているはずです。
なぜそう言えるかというと原因と結果は一致するからです。
ならば今がより良くなるよう努め、喜びを増やしていくことが人間の使命ではないでしょうか?
喜びの範囲を拡げていき、より大きな喜びを生み出し続けるべきではないでしょうか?
と言うより、これは人間が本来望んでいることだと私は感じています。
神より生まれしものは神の属性を持っていて当然です。
故に人間は歓喜、弥栄が原動力で生きています。
皆さんの内奥から聞こえてくる声に耳を傾けて下さい。
以下は日月神示の一文とインドの聖者サイババの言葉です。
日月神示
【下つ巻 18帖】
この道は⦿(かみ)の道であり、人の道であるぞ。この道の役員は神が命ずることもあるが、己が御用すれば、自然と役員となるぞ、誰かれの別ないぞ、世界中の臣民みな信者ざから、臣民が人間ごころでは見当とれんのも無理はないなれど、このことよく腹に入れておいてくれよ。
⦿の土出るぞ、早く取りて用意して皆に分けてやれよ。
【梅の巻 4帖】
⦿(かみ)が預けてあるものは、預かった人民よきに取りはからえよ、大き小さいの区別ないぞ、塵(ちり)一本でも⦿のものざと申してあろが、塵一本動かすに、いちいち⦿の心聞いてやっているとは言わさんぞ、預けるには預けるだけの因縁あるのざぞ、預かった人民よきにせよ、奥山何処に移ってもよいと申してあろがな、⦿の道弥栄。
【サティヤ・サイババの言葉】
現代においては、真理、正義、平安、愛に関するスピーチが行われ、価値を広めるための展示会が催されています。
しかし、実生活の中でこれらの価値を実証しようとする試みはなされていません。
価値が実践されないのであれば、スピーチや展示会が何の役に立つのでしょう?
宣伝活動によって世界が変容することはありません。
これらの理想の生きた模範があって初めて、その理想は意義深く、奮い立たせるものとなるのです。
世の中のあらゆる混乱は、人々が二重生活を送っていることに起因しています。
言行不一致なのです。
思いと言葉と行動が一貫していなければなりません。
調和のとれた生き方を通して人類の一体性を促進し、すべての人と喜びを分かち合うことの中に、真の霊性があります。
バジャンやあらゆる形の礼拝は単なる善行にすぎず、霊性においてはどうでもいいことです。
信愛は万物に対する愛を表現することにあります。
スピーチによってハートの変容をもたらすことはできません。
それらはしばしば混乱と対立を招きます。
スピーチよりも優れているのは神への信仰を伴った愛の実践です。
神を信じていながら、神の言葉や命令を無視することは、あなた自身を否定していることになります。