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常により良くしかならない

失敗と聞くと皆さんはどんなものを想像するでしょうか。
一般的には望むような結果が出なかったことが失敗であると言われます。

では望むような結果が得られたと仮定します。
その結果はあなたにとって本当に良い影響を与える保証はあるのでしょうか?
良くない方向に向かわないという保証はあるのでしょうか?

また『万事塞翁が馬』の言葉通り同じ出来事でも時、所、状況、その他の条件により良いとも悪いとも言えてしまうものです。

物事を限定的に見て良い、悪いと言って心を騒がしくすること自体がすでに失敗と言えるのではないでしょうか?
そう考えると結果以前に失敗はあると言えます。

起こったことに不満になること、起こる前から思い悩むこと、それらを延々と行っているのが人間だと言われます。

この世界にあるもの一切は神のものですからどんな悪的なことがあっても、それは弥栄するための過程でしかありません。

歴史的に見ても人が様々な苦難を克服し、より良くしてきたのも人は神の入れ物と言われるからです。

日月神示でも神とは弥栄であると書かれています。
師匠はより良くにしかならないから安心していなさいと言い、また『今に満足し、満足からより満足へ』と言います。

生きている以上、常に過程であり、過程であるが故に弥栄するのだから感謝していればいいんです。
そういう生き方が出来てこそ成功と言えるのではないでしょうか。

日月神示では以下のように書かれています。

【青葉の巻21帖】
弥栄とは次々に限りなく喜びを増やして養って行くことざぞ、喜びとはお互いに仲よくすることぞ、
喜びは生きものぞ、形あるものぞ、声あるものぞ

【富士の巻 14帖】
臣民にわかるように言うなれば、身も心も⦿(かみ)のものざから、毎日毎日神から頂いたものと思えばよいのであるぞ、
それぞれの身体をどんなにしたらよいかということわかるであろうが、夜になれば眠った時は⦿にお返ししているのざと思え、それでよくわかるであろうが。
身魂磨くと申すことは、⦿の入れものとして⦿からお預かりしている、⦿の最も尊いとことしてお扱いすることぞ。


【地震の巻 2帖】
人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見ればわかるであろう。
表面的なるものの動きも、内面的に関連性を持つ。
故に外部的に曲げられたる働きの許されてあるを知ることができるであろう。
許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。
浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。
動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。
さらに善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜という。
歓喜は神であり、神は歓喜である。